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【平成を語る】よけいな音も、花束も

ピアノを習っていた。3年とか5年ではなく、3歳から14年ほど。

でも今となっては、私がピアノを弾くところを見た人は少ない。

そうなったのには理由がある。直接的な理由と、漠然とした理由をあわせて記載しておく。

直接の理由:音に弱くなってやめた

高校1年の夏休みに部活の合宿に行ったところ、集団で食中毒に感染した。

私も他の人と同じように、腹痛や下痢を訴え、なぜか頭痛もひどかった。初期は高熱も出たので、そのせいだと思っていた。

しかし、腹痛や下痢が治り、高熱が下がっても、頭痛だけは不思議と治る事がなかった。

以来、けっこうな頭痛持ちになってしまうことになる。

体を動かすのも痛い、紙屑がカサッと鳴るのも痛い。自分の声も痛い。家族が食卓で会話するのも聞いていられなくて、食事は自室に運んでもらった。必要なことは筆談でやりとりした。

そのぐらい重度だったのを、頭痛薬とか漢方薬とか耳栓とかを駆使して、だましだまし高校生活を送った。学校には、出席日数を稼ぐためにとりあえず顔だけは出して、保健室で寝て、終わりのホームルームにも顔をだして、帰るという感じで通った。ただし、すべての時間割についてちょっとずつは顔を出さなくてはならず(単位を取るためには授業ごとにある一定以上の出席回数が必要だった)、保健室と教室を往復するのがしんどかった。特に階段は、一段ずつゆっくり、手すりを使って上がっていたので、時間もかかった。ほかの生徒たちの間では「あの人、本当によく授業中に廊下を歩いているなあ(でも真面目そうな服装だからサボりではないんだろうなあ)」ということで有名人になってしまう。こちらの感想としては、のちの言葉でいうとてへぺろという感じだった。

そんな学校生活がてへぺろの状況では、合唱も、ピアノも続けることは困難だった。

それでも「どーしても弾きたい!」と幼いころから心に決めていた曲がいくつかあったので、それらだけはマスターして辞めることにした。

マスターしたかった曲とは『巡礼の年第3年から「エステ荘の噴水」』。私は「アンドレ・ワッツ」さんという演奏家がリストを弾いたアルバムを持ってて、小さなころから憧れだった。これだけはどうしても、と一念発起し、耳栓をしながら必死に練習をした曲である。

「アンドレ・ワッツ」さんによる演奏は、繊細でありながらも遊ぶような軽やかなタッチに、幼いころから夢中で聴いていた。

リストはやたら難曲が多く、やたら手の動きが忙しい曲(アルペジオとか言われていたやう)をチャレンジしたことがある。一応弾けるようになったけど、もう弾きたくないですと思った。こんな難しい曲がまだまだこの世にあるんだ…という高い山の頂を遠く眺めながら、しぶしぶとピアノを辞める決意をした17歳の春だった。

漠然とした理由:音楽業界の空気感と合わない

こちらは、小さいころから常々感じていた「この業界、合わないな」感。

子どもでも、ピアノ発表会に出たりするとき、めかしこむ。自分でめかしこむっていうより、親によってめかしこまされる。

その日のために衣装(ドレス)を新調しなきゃとか言われて試着をさせられたり(※私は試着をするだけで心身にストレスがかかるという体質である)、美容院行きましょッ(※私は美容院も…うーん)とか言われたり、親がピーチクパーチクうるさいんである。

曲のイメージに合わせてこんな色がいいねえなんて母と店員が話を進めているかたわら、私は(ピアノ弾くために腕が動かせればそれでいい)といつも思っていた。発表会当日、ドレスを着た姿をやたら写真に撮られるのも嫌(※私は写真に撮られるのは…略)だった。

聴きにきてんのかい?観にきてんのかい?そんな疑問が浮かんでいた。

あの時の自分に『両方だよ』と教えてやりたい。そうしたらもっと早めに辞めていたかもしれない。

演奏が終わり、拍手を受けて一礼する。そのあと、そこで舞台下に友達が観に来てくれていて、サプライズで花束を渡しに来ていることがある。

そんな時、お、おう…と思って身をかがめて花を手に取る。見ていた母いわく、使い終わった花火を回収しているみたいな事務的な仕草だったらしい。花束をもらったら、本番直後で疲れていても、また花束じたい(持って帰るのめんどくせえと思う程度に)好きでもなかったりしても、感謝を込めてほほ笑むとか、そういうしぐさをするものだぞとか、いろいろ言われた。

音楽は、だいたいドレス着て舞台にあがるので、なにかと窮屈な業界である。めかしこんだり、花を贈り合ったり、なんだか形式がかっちりしすぎていて、馴染みにくさを感じる。疲れている時は手ぶらでさっさと帰りたい派の私にとって、花束はもらってしまうと「んん…どうしよう」と扱いに困るものなのだった。当時は子どもだったのですぐ親に渡してしまったが、一人暮らしだったら花瓶も持っていないタイプだろうなあ…そういう場合はバケツにでも入れて放置するんだと思うが、あまりにも花が可哀想だ。

とにかく、全体的にエレガントな、ドレスとお花に囲まれた感じのクラシックの世界について、私の感覚とミスマッチな部分が多かった。

中学の時点では『ピアノで生きていくのもいいなあ』と勘違いした瞬間もあったので、あれから頭痛にならず純粋にピアノをズガガガガンと勉強していたらどうなっていたかな、と思う事もある。技術的にはうまくいかなくても、カジュアルなスタイルを推奨していって裾野を下げるとか、そんなことをやれていたのかもしれんね。

自然な音の曲ばかり聴いている

頭痛がやわらいでいる日には、心の癒しのために、自然な音のCDをよく聴いている。

ピアノでいうと、

大井健さんの「Piano Love」 躍動感あり、定番あり、聴きやすい。

長谷川翔太さんの「聴くだけうつぬけ」の附属CDがゆったりしてていい。

ハープでは、グザヴィエ・ドゥ・メストレ という演奏家が個人的におすすめ。エトワールの夜 グザヴィエ・ドゥ・メストレ プレイズドビュッシー というアルバムで、ピアノで弾いてたドビュッシーの名曲をハープで弾いておられて、懐かしさと同時に驚きが込み上げた。

また口笛は、口笛奏者の柴田晶子さんのCDを購入させていただき、澄んだ音色に癒されている。

優しい音に包まれて

自分はいまやピアノを離れて久しいし、頭痛が健在なので、本格的に音楽を始めることはまだ難しい。でもその分、人に声をかけるときの自分の声とその中身の充実を大切にして、少しでも世界を優しい音で満たしていきたいと思うようになったのだった。

もちろん、たまに騒音も出しますがね。


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