人間の生き方 モーツァルト
モーツァルト(1756年―1791年)は、主に現在のオーストリアを活動の拠点とした音楽家である。
ハイドンやベートーヴェンと同じく、古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。
彼は、ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減って、借金を求める手紙が残されている。
モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因である。
だが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長のアントニオ・サリエリらの、イタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。
1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去して、レオポルト2世が即位する。
モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行して、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するが、聴衆は不入りだった。
1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが、演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。
7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月に、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式で、オペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演する。
9月30日に、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げて、精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩して、薬を服用していたという。
体調は11月から悪化して、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の、11月20日から病床に伏して、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。
死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
この年、レオポルト・ホフマンの推挙で、モーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。
ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。
ホフマンの死後に楽長を引き継いだのは、アルブレヒツベルガーであった。
死去する3年前の手紙に、自分自身のことをモーツアルトは語っている。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。
目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。
こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。
長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。
有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」
モーツァルト(1756年―1791年)は、主に現在のオーストリアを活動の拠点とした音楽家である。
ハイドンやベートーヴェンと同じく、古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。
人間の生き方について彼は語っている。
「夢を見るから、人生は輝く」
さらに彼はこういう。
「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけをすることだ」