徒然日記2020.10.18

今日は娘の運動会。レンタルした望遠ズームレンズで娘を追いかけた。ファインダー越しに見える娘の頑張りに心が動かされる。
運動会が終わって全員にもらえる金メダルを胸にかけた娘は嬉しそうで、ちょっと誇らしげだった。がんばった娘に、大人の方が活力をもらう。
ついこの前産まれた気がするのに、もうこんなに大きくなって、精一杯生きている。この事実だけで、とても元気が出てくる。5年前は影も形のなかった「無」であり「空」の状態から、このようなかけがえのない「いのち」が生まれたことに、生命の神秘を感じるとともに、この小さい「いのち」がしっかりと生きていることに感動すら覚える。生きているというのは、とても不思議なことだ。そして素晴らしいことだ。
園長先生の話が印象に残る。この運動会を契機に子どもたちはより一層成長するというのだ。運動会は現代に残る数少ないイニシエーションの儀式なのだと感じた。このような儀式を通して、古い自分から新しい自分へと脱皮して、また成長していく。

さて今日の一考ですが、「縁起」について。

「縁起」
小川 一乗(おがわ いちじょう)(教授・仏教学)
「縁起」とは「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」という、仏教の基本思想を表す重要な用語であるが、私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。 (中略)仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。

自分というものは、無数の周りの因縁によって存在している。因縁というと、因縁をつけるなど良い意味では使われないのでもう一度「因縁」も辞書を引きたい。

いんねん【因縁】の解説
1 仏語。物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こると説く。
2 前世から定まった運命。宿命。「出会ったのも何かの因縁だろう」
3 以前からの関係。ゆかり。「父の代から因縁の深い土地」
4 物事の起こり。由来。理由。「いわれ因縁」「因縁話」
5 言いがかり。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

無数の因縁によって存在するということを考えてみると、原因とも使われる「因」は因果律で解明さえている因果関係のわかったものといえる、では「縁」とはなにか?もう一度「縁」について辞書を引いてみる。

えん【縁】 の解説
1 《(梵)pratyayaの訳》仏語。結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して結果を生じさせる条件や事情。「前世からの縁」
2 そのようになるめぐりあわせ。「一緒に仕事をするのも、何かの縁だろう」
3 関係を作るきっかけ。「同宿したのが縁で友人になる」
4 血縁的、家族的なつながり。親子・夫婦などの関係。「兄弟の縁を切る」
5 人と人とのかかわりあい。また、物事とのかかわりあい。関係。「金の切れ目が縁の切れ目」「遊びとは縁のない生活」
6 (「椽」とも書く)和風住宅で、座敷の外部に面した側に設ける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁ということが多い。

縁は間接的な要因と読み取ることができるが、原因を起こしている間接的な役割とはなんだろう?それは環境要因だったり、あくまでも直接的には影響していないが間接的に影響しているものであると考えられる。
この「環境要因」というところに注目したい。人は環境によって生かされているとも言える一つのエピソードを引用したい。

 主人公は、薬湯の村を訪れた武士。傷を癒すためやってきた彼を、なぜか村人たちが拝みます。これはどうしたことかと武士が尋ねると、前夜、一人の村人が夢で「観音様が武士の姿でこの村にやってくる」というお告げを受けたというのです。武士の容貌や衣裳は、まさに村人が夢で教えられた通りでした。自分は観音ではないといっても、ひたすら拝み続ける村人たちを見て、とうとう武士は「自分は観音なのだ」と出家を決意し、その後、比叡山で僧になった──という話です。
 興味深いのは、この武士が、それまで会ったこともない他人の夢によって自分は観音なのだと確信したというところです。彼の「私」は、まさに自他が浸透しあったところに生じているといえるでしょう。

「私」とは何かを考えるとき、西洋の近代においては、西洋人のegoを「私」と同定するほどに考えていました。それに疑問を感じたユングは、egoから出発して、もっと心の深みに降りてゆこうとしました。これに対して、日本の中世の人の「私」は、他との区別もほとんどなく、自も他も融合しているほどの存在として受けとめられていたのですが、現代の日本人──たとえば私のような──が、そこから、もっと個別性を感じさせる「私」を求めて上昇してきたとき、ユング心理学という領域において、西洋と出会ったのです。ユング心理学はきわめて深く広いものですが、それを受けとめる際に、西洋人が自我との関連において理解しようとするのに対して、日本人(あるいは東洋人)は、自他分離以前の存在との関連において理解しようとする、と私は感じています。

NHK 100分 de 名著 河合隼雄スペシャル 2018年 7月 [雑誌] (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1382-1395). Kindle 版.

このエピソードは環境要因が因を乗っ取り新たな存在として変わった例とも言えるかもしれない。縁に身を任せていくというのが最近の私のテーマになりつつあって、流動する世界の中で自我egoを小さく小さくして、周りの縁のダイナミックな動きの中に身を投じていく。そうすると自然と良い縁起となっていく。

最後に+Mさんから教えてもらった植島啓司の『偶然のチカラ』から縁に身を投じていくダイナミックな考えを引用して今日の日記をおわる。

そもそも宗教というものも、ルーマニアの宗教学者エリアーデも指摘するように、何よりも「エクスタシーの技術」なのである。「エクスタシー」(忘我)は「エグジスタンス」(存在)と同じ語源であり、「みずからの存在の外側に立つ」という意味であり、歴史を通じて、人間はつねに自分以外のものに自分を託すことによって危機を乗り越えてきたのである。それゆえに「人間は、人間によってではなく、人間以外によってしか癒されない」ということにもなる。修行を重ね、感情を抑制したり、自己を滅却したりするのも、究極的には同じ状態(自己喪失)を目指しているのである。
植島啓司「偶然のチカラ」

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