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私の中の他者

気づく瞑想というものがあるけれど、私が気分が落ち込んだ時の状況を気づいていくと、自分の中に「他者」がいることに気づく。それは自分が作り出したフィクション、妄想であるにも関わらず、自分の心を掻き乱してくれる。

上司に叱られるとする。叱られたのは事実であるが、叱られた時を過ぎても、上司は心の中に居座り、執拗に私を攻撃しつづける。事実だけを捉えようとすると、叱られたのはその場、その時だけである。その後の自分を制限することは何もない。私の中の小さい頃から育んだ「社会性」というものは、自分の中の「他者」というモンスターをも育て上げ、何かトラブルがある度に、そのトラブルの主人公を心の中に呼び込み、自分を攻撃しつづけるのだ。

長年育んだ自分の中の「他者」は、神経回路が出来上がっているようなので、なかなか自分の中から出ていってくれない。+Mさん(@freakscafe)の紹介されていた本で素晴らしい本があった。OSHO著『存在の詩』(めるくまーる)での好きなところをいくつか引用する。

 彼らはいつも外からやって来る。あなたはただの通路にすぎない。一羽の鳥がひとつの扉から家に入って来て、別な扉から飛んで行く。ちょうどそれと同じように、ひとつの想いはあなたの中にはいって来てはまた出て行く。あなたは想念というものを自分のものだと思って疑わない。そればかりか、自分の考えのために争いさえする。これは自分の考えだ、これは正しいんだとのたまい、議論をし、論争し、それについて論戦を張って、それが自分の考えだということを証明しようとする。

 どんな想念もあなたのものなんかじゃない。独創的な想念などというものはありはしない。あらゆる想念は借り物だ。それもセコハンどころのさわぎではない。というのは、あなた以前に、もう何百万人もの人間がその同じ考えを表明しているのだ。想念というのは、ちょうどものと同じぐらいに外的なものなのだ。
 だから、何かあるものを避けたいというときには、必ずそれに過剰な注意を払っているわけだ。ある考えを考えたくないというときには、あなたはすでにそれを考えてしまっているのだ。これを覚えているといい。さもなければ、あなたは同じ穴のむじなになってしまうだろう。(猿のことを絶対に考えるな!と言われた人が)猿をストップしようとしたせいで、猿にとりつかれてしまったこのあわれな男とね。

 心を止める必要はない。ただ見守るのだ。それを見ることなく見守るのだ。ただ眺めるのだ。もし彼らがやってくればよし。何も悪く思うことはない。なぜなら、それが良いというほんの軽い感覚でさえ、それでもうあなたは戦いを始めてしまっているからだ。
 もしあなたの中に怒りがこみ上げてきたら、それを見守るのだ。丘の上のものみになるのだ。眺め、眺め、眺め続けるのだ。何を見ることもなく、何に憑かれることもなく。ただ眺めるというそのことによって、あなたの知覚が透明に冴え渡ったそのとき、突然、一瞬のうちに──。実際には時などなく、突然時間を離れて、あなたは完全に目覚めている。あなたはひとりのブッダだ。あなたは悟れるもの、覚者となる。

自分の中の「他者」に長年悩まされてきた私は、このOSHOの本を読んでいくだけで、心が澄み渡ってくるようだ。私の中に訪れた「他者」を眺める、眺める、眺める。そうすると、気がつけば気づく人になっている。「他者」はそっと外に出ていってしまった。心は自由になった。もう誰からも縛られることはない。自由だ、自由だ、自由だ。


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