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物を買わずに豊かに生きる2

物を買わずに豊かに生きる?

どう考えたって物を買ったり、お金を使った方が豊かじゃないか!と怒られそうである。たしかに、この資本主義末期の社会ではお金を使わないと体験できないことがたくさんある。美味しい食事だって、お金を使ってなんぼのところもある。物を買うことで、豊かになれることだっていっぱいある。家電、なんてものはその最たるもので、それによって生活が豊かになるかもしれない。

でもこの物のあふれた社会、お金を使わないと何もできないように思わせてくる社会に一石投じたいような反骨心が少しある。私はお金を使わないと豊かに生きられないというのは、一つの側面でしかないと思っている。

そもそも、「豊か」の定義ってなんだろう?

たぶん世間一般の豊かな生活とは、「お金持ち」という言葉に代表されるような豪華な物、豪華な体験などに囲まれた生活と容易に想像できる。私だって、かつての自分はそう思っていた。富を追い求めて、自己啓発本などを読み漁っているような、上昇志向のあった若き日の自分。
今、私はそんなイメージを毛嫌いするような気持ちがある。

それって豊かじゃないよね?

じゃあ私の考える豊かってなんだろう?

散歩して街の四季折々の変化を楽しみ、図書館で好きな本を好きなだけ時間たっぷり読み、お互いに自立した人同士の声の掛け合いのような気楽な人間関係を楽しみ、祭りに行って祝祭の場にいたり。

ホームレスでいいじゃん!

ホームレスは極端かもしれないが、私の考える豊かさとは、以前の私の豊かさと変わってきている。この資本主義末期の世の中で、お金というものに踊らされることなく、競争から抜け出して、悠久の時に触れるような生活をしてみたいものだ。

現実はそう簡単ではない。それはわかっている。それでも、お金によって競争させられている社会というものは、もう終わりでよいと思っている。もっと自由に、生きていたいはずだ。

だから少しずつ、お金で買えない豊かさを生活に取り入れてみる。心の古層に触れるような映像を見たり、本を読んだり。昼間のお金にまみれた自分とは違う一面を夜に楽しむ。日が暮れたら、そんな生活も良いかもしれない。

私は日が暮れて、深夜の時間帯は、決まって心の古層に触れるようなコンテンツを楽しむ。最近はそれを探求している中沢新一さんから目が離せない。中沢新一さんの本を読んでいるだけで、深いところにダイブできる。彼の講演を動画で見たり、本を読んだり。そして関連図書だけでもごまんとある。それらをひとつひとつ紐解くだけで、時間はあっという間に過ぎてしまう。

昼と夜、聖と俗、ハレとケ、人はいつだって大きな振れ幅で「生きる」を実践してきたに違いない。植島啓司が語る言葉に耳を澄ませる。

いつも「人間はまったく異なる二つの側面を持たねばならぬ」と思って生きてきた。ところが、インドネシアのバリ島では、もっとすごい。彼らのほとんどが、たった一日のなかで、同時に、農民であり、遊び人であり、宗教者であり、アーティストなのである。
<中略>
普通の人々も、朝は農民として働き、昼になって陽が高くなると木陰で休んだり、道端で賭け事に興じたりする。そして、夜になり、祭りの時間になるとお坊さんになったり、ガムランを演奏するグループに入ったり、トランスに入ってダンスを踊ったりと、いろいろな役割やシーンをそれぞれ演じることになる。そこでは一人の人間がいろいろな存在になることができる。西欧や日本の人々が限界を感じているのは、そういう意味での豊かさからどんどん遠ざかっている点で、こういうことはけっしてお金では得られないのである。

植島啓司「生きるチカラ」(集英社新書)

そうだ、これだ!
植島啓司の言葉は、私が言いたかったことを言ってくれている。コロナ禍で祭りが少ない。このような豊かな生きるが実践できていないのではないか?いつだって祝祭の場は、人の心を高揚させてきたに違いない。コロナ禍で自粛警察が取り締まり、このような祝祭の場は禁じられてきた。もう限界という方も多いのではなかろうか。仕事人であり、遊び人であり、宗教者であり、アーティストである。そのような様々な生きるを実践できるようなことが、豊かに生きるということだと、私は思っている。それに資本主義のお金は関係ない。お金を抜きに、豊かに生きるを実践する!という挑戦を私はやっていきたい。

この「物を買わずに豊かに生きる」という記事をいろいろなバリエーションで変奏曲のように奏でていきたい。私はこれから、自分の「豊かに生きる」を実践し、今日はその変奏曲の第二弾とする。


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