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徒然日記2021.3.10

主体と客体を越えた一なるもの。『井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 東洋哲学の構造 エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会)を読むと、わかりやすく禅の精神性が解説されている。普段、生きていると、あまりにも主体の自我が中心で、客体との間に明確な境界線を引きすぎる。

妻と息子とカフェにランチに行くと、隣でママ友4人衆の一人が大声で、不在のある人の悪口を延々と述べている。悪口の対象の人が、いわゆるローカルルールを犯して自由にしているのが気に触るらしく、彼女のアドバイスを聞こうとしないことに腹を立てているらしい。

私はすぐに河合隼雄の本の内容が想起された。女性の来談者で、化粧も薄く、服も地味なその方は、最近職場に入ってきた新人の女性が、派手な服で、アクセサリーもつけていて、ありえない!職場は戦場ですよ!と声を大にして怒りを表明している。河合隼雄は、まぁそんな大きな声で言わないでくださいよ、とやんわりと強い衝動を意識させながらじっくりと聴いている。怒りを何回かの面談で話された後に、河合隼雄は何を言っても受け入れてくれる自由な面談に次第に心が解放されていき、フッとその女性は気づかれて、私もやってみようかしらと思われる。そして、その後は女性は化粧もしっかりとして、服も少し派手になり、アクセサリーもつけて、もう大丈夫ですと、面談は終結に向かったという。

これはとても単純化してわかりやすい例だけれど、強い怒りを表明するとき、心の底で抑えてきた願望を投影している可能性がある。本当ならもっと自由にしたいのに、幻想のマジョリティのルールに合わせるために、我慢してきた様々な願望。私は我慢しているのに、なんと自由にしている人がいる。ゆるせない!というような流れで自由にしている対象を盛大に攻撃する。

その人は無意識と対立しているのだ。意識が無意識を抑えつけて、一見は制御しているように見えるけれど、無意識と意識は対立して、たまに無意識を投影した対象を、意識が盛大に攻撃する。このままではいけない、無意識と和解せねばならぬ。抑えてきた無意識の願望を意識に表出させて、意識を変えていく必要がある。無意識の臨んでいたことを知り、意識、自我と無意識は和解して、より豊かな自我と無意識を包摂した自己へと変貌していく。

このようなユング心理学的なアプローチと、禅的なアプローチは似ているような気がする。主体と客体を分けて考えること、分別して考えることによって、差異が生まれて、妬み、嫉み、憎しみ、などが発生する。主体と客体の境界線を外して、一なるものを目指す禅的な思考は、前述のユングの自己化、個性化のプロセスと重なってくる。そのようにして、あらゆる事物が一なるものから現前して、常に変容していく世界観は分別心によって発生した悩みを克復するのに重要な示唆を与えてくれる気がしている。

水木しげるの『猫楠』(角川ソフィア文庫)のなかで熊あんこと南方熊楠は、人の心は3つ4つ集まってできたものだと語るところがある。

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恐らく社会的に一つの心として活動していると、他の3つの心は、抑えつけられている。そして、表面でている心と、心の奥底にいる心が対立するのだ。心の奥底にいる心は、私も外に出たい!と言っているのに、表面にいる心が必死に抑えつけている。そして、抑えつけられている心が外的な人に投影されて、表面にいる心は盛大に対象を攻撃する。その攻撃の本質は、抑えつけられた心の反逆であるのに…。

今日はそんなことを考えながら読書に耽っていた。強い衝動を持って客体を攻撃しようとするとき、抑えつけられている、もう一人の自分を探してみてはいかがだろうか?

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