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覚りの茶を、いかが。

「仏教=悟りを目指す活動」という図式に固定されていると、いろいろわからない事だらけになる。特に、禅のテキストが全滅だ。たしかにそれは悟り(覚り)をめぐる問答やら解説やらで埋め尽くされてはいるのだが、肝心の悟りの内容が書かれていない。小石が竹に当る音を聞いて悟ったとか、谷川の水音が仏の説法に聞こえたとか、状況描写は詳しいのに、いったい何を悟ったのか、どんな説法だったのかという核心部分がスキップされている。いったいどういうわけか。「説明不可能なものこそ悟りである(不立文字)」という禅宗のキャッチコピーでこれを納得するわけにはいかない。言語に限界があるのは当然で、語りえない領域は広すぎ、そこに悟りがあるなどと言われても、情報量はほぼ無いに等しい。

たとえば『正法眼蔵』中のこの言葉。

大悟三枚を拈来して少迷半枚をつくるなり
(三度大悟してわずかに迷う)
 ––– 第十・大悟

「三度も大いなる悟りに到った達人でも、少々迷うことはあります(だから普通の人が迷うのは無理もありません)」と読みたくなるかもしれないが、それは無理がある。なぜなら「拈来し(take up)」「つくるなり」の語感は両方とも積極的・能動的なものだ。三度も悟ったのに、ちょっと迷ってしまった、とは解せない。大悟と少迷の間の接続助詞「て」は逆接ではなく、順接なのである。「少迷半枚」はむしろ積極的に「つくり」に行っている感さえある。なおこの時代の漢字の用法では「少」は「小」と同義である。「枚」は薄いもの以外にも広く用いられた助数詞で、「度」としたのは意訳である。

仏教=悟りへの道であるとしたら、むしろ「大迷三千枚を拈来して少悟半枚をつくるなり(迷いに迷った末にようやくわずかな悟りが開ける)」と言うべきなのだ。道元はその逆を言っている。それを理解するには、前提を放棄するしかない。「さとり」と「まよい」は、後者が忌むべき現状で、前者が目指すべき理想–––なのではなく、ただ異なる二種類の状態であるにすぎず、対等なのだと。

対等にして相異なる二つの状態を往還する。これは「茶の湯」に似ているのではないかと思い当たった。茶の湯は「究極の美味しいお茶を目指す」ことではない。それは二つの空間体験、露地と茶室とを往還することなのだ。露地の飛石を伝って、躙口から茶室に入る。二種類の空間のギャップを身体的に示す躙口。茶を喫して再び露地を通って帰って行く。この、露地(A) –– 茶室 (B) –– 露地 (A') という体験の系列を通して、人は人になるのである。露地に世界(迷い)を、茶室に仏法(悟り)を、重ねてみてください。三杯の茶によって、帰りの露地がちょっとちがう景色に見えませんか?

この茶の湯の説は「正法眼蔵研究所」の研究日誌にも「花は愛惜にちり」「鳥が鳥になるために」として書きました。合わせて読んでくださるとうれしいです。それと、そもそもこういうことを考える大ヒントをくれたのはこの本です:

安原盛彦『日本建築空間史 ––– 中心と奥』鹿島出版会 (2016)

道元研究と建築道楽を連結してくれたすごい本。きっと、どんな分野にもインスピレーションを与えるにちがいないと確信しますので、みなさんに強力にオススメします。

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写真は、谷口吉生設計・鈴木大拙館(金沢)。

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