徒然日記2020.11.04

自分の中の荒々しい野生の部分をどのように表に出していくか。これは難しい問題だと思っている。ともすると野生に呑み込まれて依存症や精神の病になってしまう人を多く見てきた。そのドロドロとした野生の部分を巧みに表に出す技法を古来の日本人はどうしてたんだろう?と思うと、すぐに連想したのは「祭り」だ。私は野性的な部分を祭りに感じるところがあって、神輿を担いでぶつかり合ったり、鬼と化して好き放題したり、祭りには荒々しい部分がとてもよく現れている。そんな祭りを季節が変わるときにやることによって、人の恐ろしい野生の部分を表に出していたと感じている。

そんな野生の部分を自分はどのようにして表に出していこう?と最近よく考えている。夢にも攻撃的な自分は現れているし、そのような荒々しい部分を巧みに出していくにはどうしたらいいか?考えられることをつらつらと書いていきたい。

一つには「祝祭的な場」であることは間違いなさそうで、それは親友や家族との発散の場を設けることが一つの解だと思っている。カラオケでも飲み会でも良いし、スポーツでも良いが、気の置けない人との祝祭的な場は野生を放出する絶好の場と考えられる。ただ、この祝祭的な場はコロナ禍で多くが制限されている。これは難しい問題である。

二つ目の解は、「遊ぶ」ことだ。遊ぶの反対は固着というわけだが、遊ぶことによって、野生の部分が現れている外側に出ることができる。人には荒々しい野生があることは前述の通りだが、遊ぶことによってリアルとバーチャル、虚と実の外側に出て行ける。現実の野生の部分に乗っ取られると、依存症や精神の病になってしまう。ユングは恐ろしいほどの無意識の世界を垣間見ながら、現実と行ったり来たりしていたようで、エレンベルガーはそれを高速移動といったようだ。現実の世界もキチンとやりながら、無意識のドロドロしたものを放出して遊ぶ。これが理想的だがなかなか簡単ではない。私は数少ない親友との間では、文脈の中でかなり遊ぶ。突拍子もないフィクションをでっち上げた上で、大いに乱暴な展開をして、友人と大笑いしている。ドラマや物語などのフィクションの世界は、しばしば野生の部分を虚の世界で一気に表出させることによってカタルシス効果がある。だからコロナ禍で鬼滅の刃が大ヒットしたのも分かるような気がする。フィクションの世界で抑圧された主人公が鬼をぶった切る。だから色々と書いたが、コロナ禍ではフィクションの世界を楽しむことはかなり有効手段だと思った。それも普段は見ないような荒々しい物語が良いのかもしれない。

ここまで考えてきて、遊ぶという答えにまだまだ到達していない気がする。現実を遊ぶにはどうしたら良いのだろう?子どもを見ていると、現実を遊んでいることがわかる。今日は娘がトイレットペーパーの芯をつなげて望遠鏡を作っていて、そこから覗いた私を見て大笑いしていた。子どもはある道具を介して現実をねじ曲げて、世界そのものを遊ぶことの達人だ。道具はぬいぐるみであったり、絵だったり、レゴだったりさまざまで、その道具を通して世界を乗っ取ってしまう。こうしてみると私の親友との遊んだ会話とやっていることは大差はない。現実の世界とフィクションの世界をごちゃ混ぜにして、その外側に出て大笑いしているのだ。現実の世界に凝り固まっていると、無意識のドロドロした恐ろしい部分に乗っ取られて衝動的なものにハマってしまう。その外側に出るためには、祝祭的な場と遊びという解を導いてみた。答えは人それぞれだが、私は自分の野生を放出するために、この解を試していきたい。少しだけ自分の無意識との付き合い方に光が差し込んできたような気がした。今日はこの辺で終わる。

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