連作短編 泡沫人 古木守抄-第二話
歩いていると、ふと波の音が聞こえてくるような、そんな海辺の町で私は生まれ育った。
故郷の海はいつ見ても穏やかだ。たゆたう海面にきらめく波間。渡る風に乗って鳴き交う海鳥。潮の香りなんて、きっともう当たり前すぎて気にかけることも忘れていただろう。それくらいに、それらは私の一部だった。
けれども――
海沿いの道に、ひときわ大きな松の木が生えている。その木は他の木とは違って、何百年もそこにある古い木らしい。
しかし、その松の木は奇妙な具合に曲がっていて、ちょうど道行く人の視界をさえぎるような枝振りをしていた。成長するうちにそうなったのか、それとも、どうしてもその近くに道を通さなくてはならなかったのか――
いずれにせよ、危ない場所であることに変わりはなかったのだろう。現にその場所では、それまでにも何度か小さな事故は起きていたのだそうだ。
それでも、その木をどうにかしようという話が持ち上がることはなかった。あの日までは。
今年の初夏。その場所で事故は起こり、そして――
私の好きな人は亡くなった。
夏休み。まだ気温が上がらないうちにと、私は早朝から家を出た。
向かう先は、彼が亡くなったあの場所だ。
供えるようなものは何も持っていない。何かを持って行ったのは友人たちとともに花を供えた、その一度きり。しかし、現場を訪れてただ祈るだけのことが、私にとっては、もはや日常の一部と化していた。
松の木のある道は、普段から人通りが少ない。歩道は狭いし車はよく通る。そのせいか、好んでこの道を歩く人は稀だった。毎日のように通っていた私ですら、誰かの姿を見かけたことは数えるほどしかない。
しかし、この日に限っては、いつもと様子が違っていた。
松の木の周辺にあったのは、いくつかの人影。近づくにつれて、そのことに気づいた私は思わず顔をしかめてしまった。
あの事故からいくらか日が経った今、そこにわざわざ訪れるような人はほとんどいなかったからだ。今になって誰かがいるのは、何かあったのか、それとも――
遠目で見る限り、そこにいるのは見知らぬ人たちのようだった。通りすがりというわけでもなく、同じような作業着姿で、松の木を見上げながら何やら話をしている。
戸惑いながらも近づいて行くと、少しずつ彼らの声が聞き取れるようになっていった。
「――ですから、確かに昨日、伐り倒したはずなんですって。それが朝になったら元どおりですよ。おまけに、傷ついたところから血みたいなものまで流れてきたんだとか。何とかしてくださいよ。片桐さん」
情けない声でそう話していたのは、この場では一番年若そうな男性だった。
彼が話しかけていた相手は――おそらく片桐という名だろう――横から呼びかけるその声に耳を傾けつつも、松の木を見上げながら無言で何かを考え込んでいる。こちらは三十代か、それより少し上くらいの男性だ。
片桐はふいに松の木から視線を外すと、詰め寄る相手に応じる前に、近づいていた私の存在に気づいたようだ。ちょっと待て――と、困り顔の男性を黙らせてから、私の方へと振り向いた。
「お嬢ちゃん。すまないがここは通行止めだ。それとも、この松の木に何か用かい?」
私は首を横に振った。松の木に用はない。用があるのは彼が命を落とした、その場所だ。
「いいえ。ただ、事故が起きてからは、毎日手を合わせていたので」
私は淡々とそう答えた。しかし、それだけで片桐は多くを察したらしい。その顔にわずかな哀れみをにじませながらも、そうか、と呟きうなずいた。
片桐はそれ以上、くわしい事情をたずねることも、なぐさめの言葉をかけることもない。そうした対応にどこかほっとしながらも、思いがけず耳にした話が気になった私は、彼に向かってこうたずねた。
「この木、伐ってしまうんですか?」
私の視線は、事故の後も変わらずその場に佇んでいる松の木へと向けられていた。曲がりくねった幹と細い緑の葉を透かした向こうには、私の凪いだ心を映したように、茫洋とした海がただ横たわっている。その根元には、少し萎れてしまったお供えの花がかすかな風に揺れていた。
「まあ、そうだな。こんなことになる前に、そうできていればよかったのかもしれんが――せめて、二度と同じことが起きないように、な」
私の問いかけに対して、片桐は苦々しげな表情でそう答えた。
もしかしたら彼は、私がこの松の木を恨んでいる、とでも思ったのかもしれない。しかし、私はこの木に対して特別な思いを抱いたことなどなかった。
確かに、この木がなければ事故は起こらなかったのかもしれない。とはいえ、たとえそれが事実だとしても、今さら何かをしたところで意味があるとも思えなかった。
心ここにあらずのまま、私はそうですねと言って、ただうなずく。
私にとって意味はなくとも、この木がなくなることで悲しいことが二度と起こらないと言うのなら、それはきっと正しいことなのだろう。
私は集まった人たちに見守られつつも、その場で静かに手を合わせた。彼らに軽く会釈してから、来た道を引き返して行く。
私が遠ざかった頃合いを見計らって、その場にいた人のたちは再び動き始めたようだった。
「それで、どうなんですか。片桐さん」
深いため息とともに、それに答える片桐の声が聞こえた。
「いや。この木、どうも虚ろでな。このまま伐ったとしても、また同じことになるだろうよ。思いを寄せる何かがあるのかもしれん。今は、どこぞのお姫さまにでも会いに行っているのかもな――」
何の話だろうか。奇妙に思いつつも、そのときの私には彼らの話を気にかける余裕はなかった。
遠くから聞こえてくる音に、ずっと凪いでいたはずの私の心がざわめいている。町の空気がいつもと違うのは、海風が太鼓と笛の音を運んでくるからだろう。
今日は神社で夏祭りが行われる日だ。あの日、彼と交わした約束の――
夏休みに入る前のこと。
学校の休み時間に、私は親しい友人たちと話をしていた。私と私の親友と、彼と彼の友人の四人で。
親友の彼女は彼とは幼なじみで、この春に同じクラスになったこともあって、私たちはことあるごとに四人で行動するようになっていた。そのときも、話し合っていたのは夏休みでの遊びの予定だ。
「夏祭りはみんな浴衣ね。浴衣」
それを提案したのは私の親友だった。しかし、その話に男子ふたりはあまり乗り気ではなかったように思う。
去年には彼女とふたり、私は浴衣で夏祭りに行っていた。だからこそ、私にとってそれはごく自然な成り行きのように思えたのだが、彼らにしてみれば、それは思いがけない話だったのだろう。
「それって、まさか俺たちも?」
「当たり前でしょ」
驚いた様子の彼に、親友は平然とそう返していた。譲らない彼女に根負けしたのか、夏祭りには浴衣で集まることが決まる。
「わかったよ。じゃあ、約束な」
そう言った彼と、そのとき確かに目が合った。だからこそ、その瞬間に見せた彼の笑顔が、私は今でも忘れられない。
夏祭りの日に浴衣で会うというだけの、ささやかな約束。けれども、そのときの私には、それだけのことがただうれしくて、その約束だけで自分の中のすべてが満たされるような気がしていた。
しかし――
今となってはもう、その約束が果たされることはない。永遠に。
彼を失ってからの私は、まるですべてを失ってしまったかのように、先のことについて何も考えられなくなっていた。こんなにも小さな願いすら叶わないというなら、これからいったい、どんな希望が抱けるというのだろう。私はまだ、彼に自分の気持ちすら伝えていなかったのに――
それ以来、私の目に映る現実は虚ろだ。自分という存在から遠ざかり、ただそこにあるだけ。ぽっかりと空いた穴から流れ出て、私の中の海はもう戻らない。
失われた命が、決して戻らないように。
夕闇の中、私はひとり、浴衣姿で家を出た。
向かう先は、近所の神社で行われる夏祭りだ。
暮れゆく空は夕焼けの赤から夜の色に変わるところで、それも徐々に明るさを失っていった。月が昇る頃には目的の場所にも近づいていて、提灯の光が点々と並んでいるのが見えてくる。
本当はこの日、友人たちからは別の場所に遊びに行くことを提案されていた。夏祭りに行ったとしても、いなくなった彼との約束がつらく思えるだろうから、と。それはきっと、私を気づかってのことだろう。
それでも私はその誘いを断って、夏祭りへと向かっている。友人たちには、ひとりでいたいから、と嘘までついて――
すべては、失われてしまった約束を、私ひとりでも果たすためだった。
祭りのお囃子とともに、人々の笑いさざめく声が徐々に大きくなっていく。集まってくる人影は皆、遠くまで続く光の列を追っていた。
神社の入り口にある鳥居の下。私はそこで立ち止まる。誰もいないはずの待ち合わせ場所。しかし、そこには――
亡くなったはずの彼の姿があった。
私は呆然とその場に立ち尽くす。これは夢だろうか。それとも――
強く望むあまり私の心が生み出した幻かもしれない、とも思った。しかし、私のことに気づいた彼は、確かにほっとしたような笑みを浮かべている。
「いいね。それ。とても似合ってるよ」
桔梗柄の浴衣は、私がひと目で気に入ったものだ。しかし、そう声をかけられても、私はそれに応えることができなかった。
そこにあるのは、間違いなく彼の姿。初めて見る浴衣姿だが、私が彼のことを見間違えるはずもない。その声もその表情も、記憶の中の彼と少しも違うところはなかった。
「じゃあ。行こうか」
目の前の彼は、手を差し伸べながらそう言った。
私はその手を取ることをためらう。そこにあるのは間違いなく、私のよく知る彼の姿だった、が――だからこそ、そんなことがあり得ないこともわかっていた。目の前にいる彼は、いったい何者なのだろうか。
しかし、そうして迷ったのもわずかな間だけ。祭りの空気に身を投じる人々と同じように、私もまた、その非現実を求めて思わずその手を取っていた。
お互いの手はつないだまま、私たちはゆっくりと参道を進んで行く。境内にはずらりと屋台が並んでいて、皓々とした灯りに照らされながらも、夜の景色に自然と溶け込んでいた。
ふと、何かを見つけたらしい彼が、前方を指差す。
「見てよ。魚が泳いでいる。あざやかな赤だ。きれいだな」
そこにあったのは金魚すくいの屋台だ。お祭りにはよくある光景。しかし、たった今、耳にした言葉と目に映る魚の姿に、私の心はざわついた。
彼がまだ生きていたとき、こう話していたことを思い出す。
――金魚すくいは苦手なんだ。小学生の頃、すくった金魚を死なせてしまったからね。それ以来、何だか見るたびに悲しくなって。
私はとなりを歩く彼に目を向けた。彼はきょとんとした顔で私のことを見返している。
そのとき、近くで乾いた破裂音がした。彼は驚いたように辺りをきょろきょろと見回している。
音の正体は射的の屋台だったらしい。それを見た彼は、照れたように笑っていた。
「鉄砲の音は苦手なんだ。けれども、あれはおもちゃみたいだね」
ふいに呼び覚まされる、思い出の中にある彼との会話。
――射的があったらさ、任せてよ。ああいうのは俺、得意だから。
記憶の中の彼と目の前の彼の印象が、少しずつずれていく。忘れるはずのない、あの人の姿と声。確かに交わした約束。でも――
でも、この人は違う。
思わずその場に立ち止まると、彼は心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫? 疲れたのかい? 休んだ方がいいかな?」
その問いかけにどうにかうなずくと、彼は私の手を引いて、人の流れから外れていった。屋台の並ぶ一画からは遠ざかり、灯りの乏しい暗がりへと向かう。
彼と似た姿をした何か。私はどこへ連れて行かれるのだろう――
神社の片隅の、何かの石碑がある場所。そこまで来ると、彼は私を石段に座らせた。彼もまた、背中合わせに腰かける。
私たちはそこで、かすかに聞こえる祭りの音にただ耳を傾けていた。喧騒からは遠く、だからこそ、よりいっそう静かにも思えるこの場所で。お互いに、言葉を交わすこともなく。
ふいに甲高い音が天を上っていった。かと思えば、体を震わせるほどの重い響きとともに、夜空にぱっと光の花が咲く――花火だ。
生い茂る木々の隙間から、それは驚くほど大きく見えた。辺りに人の気配はない。切り取られた空にちょうど花火がのぞき見られるようなところで、人には知られていない場所なのかもしれなかった。
「ここだと、きれいに見えるだろう?」
彼は無邪気にそう問いかける。私は華やかな花火の輝きに見入っていた。
「少しは元気になったかな」
その言葉をうなずきながらも、私はこうした彼とのやりとりに戸惑ってもいた。からっぽだったはずの私の心には、自分でもよくわからないほどに、さまざまな感情が渦を巻き始めている。
この人は彼ではない。わかっていたはずだ。それでもこの人は、私にやさしくしてくれている。彼と同じように。
花火の音と光の中で、私は知らず涙を流していた。自分でも、それがなぜなのかはわからない。悲しいのか、それとも――
次々に上がる花火。その間隙でかすかに呟く声がする。
「すまない」
その声は確かに彼のものだったが、今までの声とはどこか調子が違っていた。
涙混じりの声で、私はこう問いかける。
「どうして、謝るの?」
「やはり、私では代わりにはなれないようだ。それでも、何かをしたかった。私がいなくなる、その前に。せめて、私にできることを……」
その答えを聞いて、私ははっとする。
私に向かって語っているのは、もはや彼ではなかった。たとえ彼と同じ声と姿をしていたとしても。
言葉を失っている間にも、私が知らない彼は淡々とこう続ける。
「彼が命を失うとき、約束を果たせないことへの無念が感じられた。だから、こうしてここへ来たんだ。彼は、ずっと君のことを思っていたよ。だから、どうか……」
彼はその先を言い淀んだ。そうしているうちに、それまで聞こえていた花火の音が消えて、辺りはしんとした静寂に沈んでいく。
それをきっかけにして、かすかな身じろぎの音が聞こえた気がした。私の背に向かって、彼はこう声をかける。
「許してくれとは言わない。しかし、私もまた、願っている。いつの日か、君が心から笑えることを」
その言葉を最後に、彼の気配は遠ざかって行った。振り返ったときにはもう、そこには誰の姿もない。
ただ、再び上がった花火の音と、それに伴う歓声だけが、私の耳に虚しく届いていた。
祭りの喧騒からは遠ざかって、私はあの場所へと向かっていた。あの日、彼が命を落とした松の木の元へと。
提灯の光が途切れた道は暗く、月明りだけが頼りだった。かすかに聞こえてくるお囃子をどこか物悲しく思いながら、私はその道をゆっくりと歩いていく。
そうして松の木の近くまで来ると、辺りは物々しい空気で満ちていた。人工的な光が、あちこちを照らし出していたからだ。
周辺の道はまだ通行止めになっているらしい。こんな時間なのにいくつかの人影が見えるのは、朝に集まっていた人たちが、まだそこにいるからだろう。明暗のせいか、彼らの姿はよく見えない。
それでも、周囲の人々には目もくれず、私はただひたすらにあの場所を目指した。
松の木はまだ伐られずにそこにある。月を背に佇むその立ち姿は、大きな影で暗い海をさらに黒く切り取っていた。
そのときふいに、誰かが私の行く手をさえぎろうとした――が、それはまた別の誰かによって止められたようだ。
「いや。いいんだ。彼女を通してやってくれ」
そう言ったのは片桐だった。彼は私と目が合うと、無言で道を譲ってくれる。
そうして私は松の木の前に立った。彼が命を落とした、その場所に。
ここに来るたびに、私は彼の死を思い出し、それをただ悲しんでいた。そうすることによって、彼とまた会える気がしたからだ。
たとえそれが、悲しみの中だけだとしても。彼のことが見いだせるなら、それでいいと思っていた。あの日の約束が、決して果たされることはないと知ったそのときから、私は何もかもを失ったのだから。
しかし、今このときになって、私の心は揺れていた――
私は松の木に歩み寄り、その威容を仰ぎ見る。
彼が亡くなるそのときに、彼の傍らにあったのはこの松の木だ。彼の姿を借りたあの人は、彼の心を知っていた。だとしたら――
からっぽだった私の心にも、今なら確かに、何かがあるはずなのに――私はまだ、それを言葉にすることができずにいた。だから、私は思わずその手を伸ばす。静かに佇む松の木へと。
私の指がふれた瞬間、松の木はわずかに震えたように見えた。かと思うと、木はみしみしと軋むような音を立てながら、ゆっくりと傾いていく。
「おい! おまえら、下がれ!」
片桐の声。周囲の人たちは倒れてくる木を避けようと、散り散りに動いて行く。
そうしているうちにも、松の木は大きな音を立てて地面に伏した。生い茂る葉を揺らして、静かにその場に横たわる。
私はそれをただ呆然とながめていた。堂々たる姿だった松の木は根元の方から折れてしまって、もはや見る影もない。
立ち尽くす私に声をかけたのは片桐だ。
「こいつはもう、限界だったんだ。本当なら、すでに伐られて、なくなっていたはずだからな。ちゃんとお別れはできたかい? あこや姫」
「……あこや姫?」
彼の言っていることがよくわからずに、私はそう問い返した。その反応に、彼は苦笑いを浮かべている。
「知らないか。有名な民話なんだが。かいつまんで説明すると――お姫さまがある若者と恋をするんだが、そいつが実は松の木でな。ところがある日、その木は橋材にするために伐り倒されてしまう。そうして伐られた木は、誰にも動かすことができなかったんだが、姫がふれるとすんなりと動き出す。それで、そのお姫さまはその松の木を弔った、と――まあ、これに限らず、人と木が情を交わす話は、稀にあってな」
「だったら、やっぱりあの人は……」
彼の姿を借りて祭りに現れたのは、やはりこの松の木だったのだろうか。私がそうたずねる前に、片桐は何かを察したようにうなずいた。
「この木には、何か心残りがあったようだ。おかげで、伐ってもひと晩で元どおり。どうも、この日まで倒れられん理由があったらしい。お嬢ちゃんには、何か思い当たることがあるかい?」
「約束をしていたんです。一緒にお祭りに行く約束を」
私がそう答えると、片桐は納得したようにうなずいた。
「古い木っていうのは化けるんだ。俺はそんな木を世話して回っている。この木はずっと、静かなもんだったんだがな。いったい、いつの間に化けたのやら」
化けるとは、何のことを言っているのだろう。この松の木が彼の姿で現れたことだろうか。
倒れ伏した松の木を見下ろしながら、私は片桐にこう問いかけた。
「彼はとてもやさしかったです。ここで起こったことを、とても悔いていました。けれどもこの木は、ただここにあっただけでしょう? 彼のせいではないのに――」
片桐はしゃがみ込むと、松の木にふれながらこう話す。
「そうだな。しかし、それでもこいつには、それを無関係だと切り捨ててしまえないだけの心があったってことだろう。あるいは、自分が伐られることを知ったうえでの、唯一の心残りだったのかもしれん。どうか、一緒に弔ってはくれないか。お嬢ちゃんには、酷なことかもしれないが――」
その言葉をさえぎるように、私は大きく首を横に振った。
「私は大丈夫です。彼らは――私との約束を守ってくれましたから。だからこそ、私は……」
私は片桐のとなりにしゃがみ込むと、彼がそうしたように、倒れた松の木にそっと手を当てた。
「いなくなった彼らのことを、忘れたくない――そう思っています」
事故があったあの日、私は確かに大切なものを失った。その現実が受け入れがたくて、私はずっと心を閉ざしていたのだろう。けれども、今ならようやく、その現実と向き合える気がする。
それは、彼らが約束を果たしてくれたからだ。たとえ、それが幻だったとしても。
いなくなってしまった彼は、よく似たその姿の向こうに確かにいた。この別れを、ただ悲しいだけの思い出にはしたくない。たとえ一度きりだとしても、私は彼とまた会えることを願っていたのだから。
彼らの叶わなかった願いの分だけ、私はせめて、自分にできることをしよう。今はただ、そう思っていた。
海に浮かぶ泡沫は、たとえ儚く消えてしまったとしても、きっと渡る風とともにこの町を巡っている。そう思って吸い込んだ空気は、どこかなつかしい潮の香りがして――私の中の海を満たしてくれる。そんな気がした。
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掲載サイト:カクヨム・小説家になろう・NOVEL DAYS
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