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月下氷人 古木守抄-第三話

 ひそひそと言葉が交わされている。家主が席を外している間に、口さがない客人たちがうわさ話でもしていたのだろう。それを廊下でうっかり耳にしてしまった。

 己のことはどう言われようとかまわない。しかし、彼女のことを悪く言われるのは心が痛んだ。

 わざとらしく咳払いをすると、声は息を飲むようにぴたりと止まる。相手が取り繕う間を与えてから襖を開ければ、澄ました顔の客人に迎えられた。

 ただ、私の中に嫌な感覚だけが残る。

 そのことを悲しくは思うけれども、この心持ちが彼らにわかるはずもない。そう考えた私は何を言うこともなく、ただ表向きだけはにこやかに彼らと対峙した。

 この日の客人が持ち込んできたのもまた、いつもの話――いなくなった彼女のことだ。

 席について早々、客人からはこれからどうするつもりなのかと問い詰められる。しかし、私はどうするつもりもなかった。あるがままを受け入れて、これからの時を心穏やかに過ごすつもりだったからだ。

 しかし、そうした心情は、どうも他人には理解されないものらしい。相手を説き伏せることなど疾うに諦めていたので、このときものらりくらりと話を受け流した。

 いなくなった妻が心配ではないのか、とも責められる。しかし、この客人はつい先ほどまで、私のことを女に逃げられた哀れな男だとひそかに嘲笑っていたではないか。それを知っているからこそ、彼らの諫言も私の耳には虚ろに響いた。

 今さら彼女のことを追うつもりはない。そうでなくとも、私にはわかっていたからだ。彼女がここへ帰ってくることなどない、と。

 こちらが聞く耳を持たないとわかれば、彼らもそのうち飽きてくれることだろう。それまでは、神妙な顔をしながら耳を傾ける素振りをしていた。

 そうした心持ちでいれば、客人の言葉などもはやただの雑音でしかない。

 今はあざやかな新緑の季節。視線は自然と緑豊かな庭へと向かう。そのときは、ふいに薫り始めた五月の爽やかな風が、そこにある藤の花をやさしく揺らしていた。


 そうしたやりとりを何度か経て、ありがたい忠告をしてくれる客人たちも足が遠のいた頃には、ようやく望みどおりの穏やかな日々を過ごせるようになっていた。

 しかし、それも束の間のこと。そろそろ老年期に差しかかろうかという頃、私は突然目を患ってしまった。

 光を失った私は、そこから安寧の場所を闇の中へと移すことなる。

 家の中を歩き回ることすらおぼつかない、言葉どおり手探りの毎日。福祉の手を借りてどうにかひとりで暮らせるようになってはいたが、それはやはり不安で心許ない日々でもあった。

 ある日、茶でも飲もうと台所へ立ったときのこと。

 目が見えていたときには何てことはない動作だったのに、物の置き場所や器具の操作にいちいち戸惑って、ずいぶんともたついてしまった。そのうち茶を飲もうという気もなくして、何もせぬまま茶の間へと戻ってしまう。

 そうしてひそかに気落ちしていると、ふいに――ことりと、座卓に何かを置くような音が響いた。

 奇妙に思って手を伸ばしてみたところ、思いがけず指先にふれたのは、どうやら熱い茶が淹れられた湯のみらしい。そのことに気づくと同時に、すぐ側から誰かのささやく声がした。

「あなたのもとに、帰って参りました」

 その声は確かにそう言った。

 彼女がここへ帰って来るはずはないのに。

     *   *   *

 古い家だ――初めてそこを訪れたとき、真っ先に思ったのがそれだった。

 とはいえ、それはただ単に古いからそう思ったわけではない。古いというだけなら己の実家だってそれなりに古いが、たかだか築五十年の典型的な文化住宅とは古さの質が違う、といったところだろうか。建物のことなどくわしくはないので確かなことはわからないが――言うなれば、それはどことなく歴史の重みを感じさせるような、そうした古さだった。

 郊外にある木造平屋の一戸建て。周囲にぐるりと巡らされた透垣は屋根のついた立派な門で開かれていて、建物自体はいわゆる書院造の――でいいのだろうか――まさしく日本の伝統的な古民家といった風情だ。縁側からは、立派な藤の木がある庭をながめることもできる。

 この家に住んでいるのは、ひとりの老爺。私の仕事は、全盲である彼の生活を手助けすることだった。


 私がその人を担当することになる、少し前の話。

 前任者でもあった上司から、ある日突然こうたずねられた。

「君は、幽霊は平気な方か」

 言葉の意味が理解できず、私は相手のことをまじまじと見つめてしまった。

 そんな状況で、ひとまず口にしたのはこんな答えだ。

「幸か不幸か見たことはありませんが」

 そこまで言ってから、これをたずねてきた相手が冗談を言うような人ではなかったことを思い出す。

「……もしかして、出るんですか」

 担当が変わることについてはあらかじめ連絡があったので、私はすぐにそのことに思い至った。

 相手は何でもないことのようにこう返す。

「おそらくな。私もそういった現象に出くわしたことがある。しかし、姿を見たことはない。どうやら害はないようだから、私としてもどうこうするつもりはないのだが」

 何とも言えない答えだ。

 あるいは、そこに――関われば呪われるだの、不幸が起こるだの、といった話がついて回るというのなら、さすがの私でも、己の行く末を案じていたかもしれない。しかし、害はないと断言するからには、それはおそらく、そういったものではないのだろう。

 そうでなくとも、私はその手の話をあまり信じない方だ。正直に話してくれた上司への信頼もあったので、私はためらいながらもこう答えた。

「まあ、ひとまずやってみます」

 上司はその言葉に、ほっとしたような顔をする。

「ありがたい。こういう話をすると、辞退する者も少なくないものでね」

 それも無理からぬことだろう。たとえ害はなくとも、明らかに奇妙なことが起こるというなら、可能であれば避けたいと考えるのが普通だ。

 それでも、とにかくその現象とやらを見てみないことには平気かどうかの判断はできない。そのときの私はそう思っていた。


 そうして私が訪れることになったのが、その――古い家、だった。

 出る、などという話がまことしやかに語られるからには、そこに住んでいる家主はよほど気難しい人に違いない。と思っていたのだが、予想に反して彼は穏やかな人だった。

 何かしら起こるらしい家の方も、古くはあるがおどろおどろしくはなく、むしろ開放的で明るい方だ。ひとりで暮らすには広すぎるようにも思えるが、家主が几帳面なこともあり――たとえ視力の問題で行き届かないところがあったとしても――およそのところは清潔に保たれていた。

 何度かその家を訪れた限りでは、特に奇妙な現象に出くわすこともない。これは単なる勘違いだったか、あるいは、その現象は既に過去のものとなったのか――そう思って、油断した矢先のできごとだった。

 その日はあらかたの用事を済ませたところで空いた時間ができたこともあり、家主にお茶でも飲みませんか、と声をかけられたのが始まりだ。台所にも早いところ慣れておきたいと思っていたので、私はその準備を引き受けた。

 食器や器具の置き場所を確かめながら、急須にお茶を淹れ、ふたり分の湯のみを用意する。それらを乗せたお盆を持って茶の間に向かったところ、そこにある座卓の上には、すでに湯のみがひとつ置かれていた。

 白い絹のような湯気が、明るい緑の水面より出でて、絡み合いながら舞い上がっていく。明らかに、たった今淹れられたばかりの緑茶。

 狐につままれたような、というのは、まさしくこういう心持ちを言うのだろうか。手ずから淹れたお茶を持て余して、私はその場に立ち尽くしてしまった。

 折しも、家主は掃除の片づけを終えて茶の間に腰を下ろしたところで、彼はそこにあった湯のみに気づくと、どうもありがとう、と言って、それに手を伸ばしている。水を差すのもどうかと思って、私はすごすごと引き下がった。

 ささやかだが、無視することができないほど確かなものとしてそこにある――不可解なできごと。しかも、そうした現象はこれで終わりになるはずもなく、むしろこのできことをきっかけにして、ようやく私の前に姿を現し始めた。

 誰もいないはずの部屋で物音がしたり、足音はしても姿が見えなかったり――なんてことはよくあることで、使い終わった道具がいつの間にか片づけられていたり、家主に探して欲しいと言われたものが目立つ場所に置かれていたり――といったことが何度もくり返されるとなると、さすがに勘違いや気のせいだけでは説明できないだろう。

 しかし、何より奇妙だったのは、そういった現象に出くわしているはずの家主自身が一向にいぶかしむ気配もないことだった。そのせいで、もしやこれは彼のいたずらなのでは、と思ったこともある。それくらい、私は幽霊というものに懐疑的だった。

 しかし、ある日のこと――

 訪問の前日はひどい嵐の夜で、訪れて早々、私は家主から縁側のガラス戸が割れてしまったようだという話を聞いた。見てみれば、確かにガラス戸は割れている。風で飛ばされた何かがぶつかりでもしたのだろう。それ自体は、何らおかしなことではない。

 しかし、割れたガラスの破片の方はというと、辺りに散らばることもなく、隅の方にきれいに積み上げられていた。割れただけで、こうはならない。誰かが意図して破片を集めない限りは。

 それを見たとき、私はあらためて確信した。

 これは家主のいたずらではない。ガラスの破片で怪我を負う危険を押してまで彼が私を驚かせる理由などないし、家主の指には傷ひとつないことも確認している。だとすれば、これはやはり――

 この家には、家主以外の何かがいる。


 何かがいる、という確信が得られたところで、気になることがあるすれば、その正体が何なのか、ということだ。

 考えた末に、私は上司にそれとなくたずねてみることにした。奇妙な現象を出くわしたことも合わせて報告すると、上司はためらいつつもこんな話をしてくれる。

「この件は、あまり吹聴するようなことではないし、関係があるかどうかは定かではないが――まあ、皆が知っていることだし、君もそのうち耳にするかもしれないから、教えておこう」

 そんな風に切り出すからには、聞いて楽しい話でもないだろう。私は思わず身がまえた。

「実は、あの人がまだ若い頃、配偶者が失踪してしまったらしくてね。私たちが立ち入るようなことでもないから、くわしいことはわからないんだが……」

 穏やかで、満ち足りた人だという印象を抱いていたので、そんな過去があるとは思いもしなかった。神妙な顔になった私に向かって、上司は苦笑いを浮かべている。

「ただ、その事実は彼にとってのタブーというわけでもないよ。世間話程度なら、私もそのことについて、それとなく聞いたことはある。彼にしてみれば、それはもはや終わったことなのかもしれない。彼はこうも言っていたからね――彼女がここへ帰って来ることはない、と」


 家主の過去を知って以来、私はずっと、家にいる何かについて考えを巡らせていた。

 いるはずのない何かと、いるはずだった彼の妻。たびたび起こる奇妙な現象は、彼の配偶者が失踪したことと何か関わりがあるのだろうか。

 彼の心の内など、私には知りようもない。しかし、穏やかだと思っていた彼の人生の、その背景を知ってしまったことで、今ここにある平穏はもしかして狂気を秘めているのではないか――と考えるようにはなっていた。

 それでも、この家にある不可解なできごとは決して家主に害を為すものではない。むしろ、それは盲目である彼のことを手助けしているようにも思える。まるで、いないはずの妻がこの家に住んでいるかのように。

 奇妙な現象に出くわしたことを相談したとき、上司が失踪の件を教えてくれたのは、私と同じような印象を抱いていたからではないかと思う。意識的にしろ無意識にしろ、ふたつのできごとを関連づけてしまっているのだろう。

 ともかく、いるはずのない何かと家主の間には、部外者にはふれられない何かがあった。それがどのような過去に根差すものなのかはわからないが、今の彼が穏やかに過ごせているのなら、それでいいのかもしれない――そんな風にも思う。

 ある日、買い出しに向かう前に縁側を歩いていたときのこと。

 ふと目に止まったのは、庭にある藤の木だ。死体が埋められているのは、桜の木の下だったか――そんなことを考えてしまう。

 妙な考えから逃れるように、私は藤の木の根元から目を逸らした。

 今はちょうど新緑の季節で、庭にあるその藤の木は、ともすればぞっとするほど美しく咲き乱れている。こうなるともう、周りを取り囲む松の木など、もはや添えものにすぎないだろう。やさしい紫色の花の群れは、あたかも庭の主であるかのように周囲の緑を従えていた。

 敷地の内と外を分けているのは透垣だけなので、脇を通る道からもこの藤の花はよく見える。そう思って、何とはなしにぐるりと視線を巡らせていたところ、木陰に隠れている枝折り戸から出て行こうとする誰かの姿が目に入った。

 家主ではない。幽霊の姿でも見てしまったかと思って、私は一瞬どきりとする。

 しかし、すぐに見覚えのある顔だと気づいた。近所に住んでいる中年の女性だ。

 とはいえ、彼女はいったい、ここで何をしていたのだろう。そう思って垣根の隙間から透かし見ていると、紫色の花がついたひと枝を手に、こそこそと前の道を通り過ぎて行くのが見えた。

 もしかして、花どろぼう――だろうか。

 呼び止めるかどうかまごついているうちに、その姿もやがて見えなくなってしまった。

 買い出しから戻った私は、再び庭に面した縁側を歩いていた。

 先ほど目にしてしまった所業が気になって、視線は自然と藤の木へと向かう。すると、思いがけず木の下に誰かが立っているのが見えた。

 着物の女だ。紫を基調とした装いはみごとに藤の花と同化していて、私はそれがすぐに人の姿だとは気づけなかった。

 彼女の顔に見覚えはない。しかし、その手にはやはり藤の花のひと枝が握られていた。この女も花を盗みに来たのだろうか。

 女は悲しげな表情で藤の木をながめていたかと思えば、手元に視線を落として不機嫌そうに顔をしかめている。その手にある藤の花は、どうやら少し萎れてしまっているようだ。

 そのとき、彼女はふいに顔を上げ――視線の先にいた私と目が合った。

 女はたった今、私のことに気づいたらしい。無表情でゆっくりとこちらへ近づいて来たかと思うと、女はその手にある藤の枝を差し出した。

 その意味するところがわからずに、私はまじまじとそれを見つめてしまう。

 受け取らないことに業を煮やしたのか、女はその枝を縁側にそっと手放した。残されたその枝を、私はしばし呆然と見下ろす。

 そうして、次に私が目を向けたときには、女の姿はその場から忽然と消えていた。

 枝折り戸が動いた気配はない。彼女はどこへ消えたのか――

 私は藤の枝を手に取った。そこには、紫色の小さな花弁が鈴なりの果実のように垂れ下がっている。

 呆然と立ち尽くしていると、ふと通りかかった家主に、どうかしましたか、と声をかけられた。私は慌ててこう返す。

「いえ。すみません。藤の花の枝が、落ちていたものですから……」

 とっさにそう答えてしまったが、実際のところ、これは見知らぬ女が置いていったものだ。そのことを話すべきか否かを迷っているうちに、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、こう提案した。

「よければ、床の間に飾っていただけないでしょうか」

 彼は目が見えないのだから、当然、その花を見ることもないだろうに。それでも藤の木を気にしていることは知っていたので、今さら――気味が悪いから捨てましょう、とも言いにくい。

 仕方なく、私は物置きにしまわれていた花瓶を見つけ出し、藤の枝をそこに生けた。


 そうして、たまに奇妙なことに出くわしつつも、私は彼の元へと通い続けていた。

 何かの存在にも慣れたもので、変わったことがあったとしても、もはや驚くこともない。むしろ、手助けしてくれることを、ありがたく思っているくらいだ。

 特に、家主のために茶を淹れることにはどうにもこだわりがあるらしく、気づけば先回りされているのが常だった。そのことを、どこかほほえましく思っている自分に気がついたときには、さすがに己の正気を疑いもしたのだが。

 歪なようでいて、安定している彼の生活。今となっては、その真相を知りたいという思いよりも、下手に手を出すことでこの均衡を崩してしまうことへの恐れの方が強くなっていた。

 ある日のこと。家主から話があると呼び止められて、私たちは座敷で向き合った。

「私の頼みごとを聞いていただけますか。私が死んだときには、あなたにしていただきたいことがあるのです」

 そう切り出されて、さすがの私もぎょっとする。

 しかし、あらためて相手を見返したところ、そこには明らかな衰えが見えた。ゆるやかな日々の変化ではわからなかった彼の老いを目の当たりにして、私はわずかに動揺する。

 そんなことには気づくこともなく、家主はこう続けた。

「あなたも気がついておられるでしょう。この家に私以外の存在があることを」

 その言葉に、はっとした。やはり、彼もそのことには気づいていたらしい。

「それはあなたの伴侶であった方と、その――」

 私は思わずそう言ってしまった。しかし、家主は困ったような表情を浮かべて苦笑している。

「いいえ。それはありません。彼女がここへ帰ってくることはありませんから」

 どういうことだろう。私の戸惑いを察したのか、彼はこう続ける。

「私はあの人が今どこでどうしているのかを知りません。ただ、私はあの人が幸せであることを今でも信じているのです」

 私は困惑のまなざしを彼に向けた。当然、そんなことは彼が知る由もないのだが。

 彼は淡々と自身の過去を語り出す。

「私たちの結婚は家同士で決められたことでした。私はそれを受け入れていましたが――彼女の方には、どうやら好いている人がいたようなのです」

 彼はそこで、かすかにため息をついたようだった。

「私はしばらくして、そのことに気づきました。その苦悩についても。あるとき、彼女が家を出ようとしていることを知ったので、近々入り用になるからと言って、わざとまとまった金子きんすを置いておいたのです。彼女はそれを持って家を出ました。その後の行方は知りません」

「……なぜ、そのようなことを?」

 思わず口にした問いかけに、彼は即座にこう答える。

「愛していたからですよ」

 それが心からの言葉であるかのように、彼は満ち足りた笑みを浮かべていた。

「私は、あの人のことを本当に愛していました。だから、あの人には自由に生きて欲しかったのです。愛していたからこそ。その心のままに」

「しかし、それは――」

 私は戸惑いのあまりそう口にしてから、それ以上口出しすることをためらった。彼の思いを否定したいわけではないが、これでは互いに、あまりにも一方的ではないか――

 そんな私のやるせない気持ちが伝わったのか、彼はやはり苦笑している。

「そのように思われるのが普通なのでしょうね。私のこうした考えは、言葉を尽くしても他人には通じないようだ。今さら、わかって欲しいとは言いません。ですが――」

 彼はあくまでも、穏やかに笑っている。

「私は本当に幸せでした。愛する人の幸せを信じることができて。愛する人の自由を守ることができて。本当に、心の底からそう思っているのですよ」

 私は彼の告白に啞然としていた。心の内ではさまざまな考えが巡っていく。彼の過去、そして現在。そこに秘められていた彼の思い。

 しかし、だとすれば――

 彼にずっと寄り添っていた、あれはいったい何だったのだろうか。

 そのとき、ふと庭の様子が気になった。

 風もないのに藤の木が揺れている。はらはら、はらはらと紫の花弁を散らせながら。音もなく。声もなく。

 しかし、なぜかそれは、私の目には静かに涙を流しているかのように見えた。

     *   *   *

 荒れ果てた庭に、男がひとり入り込んで来た。

 主人を失った家に何の用があるのか。不快ではあったが、まさか誰何すいかするわけにもいかない。それとも、あえて声をかけてみようか。驚いて、逃げ出すかもしれない――そんなことを考えていると、思いがけず、男は私の目の前で立ち止まった。

 作業着姿の男で、年の頃は三十くらいだろうか。男はぶしつけにも、不愛想な表情で私のことをじっと見つめている。

「さて、と」

 男はそう呟くと、虚空に向かって――いや、藤の木に向かって、こう問いかけた。

「いるんだろう? 出てこいよ」

 ぞんざいな物言いに苛立ちを覚えつつも、己に対する言葉であることは明白だったので、仕方なく姿を現すことにした。今ここにある本来の姿ではない、仮初めの姿を。

 折しも、私は満開の花を咲かせていて、無数の花弁を下げた房が、いくつもいくつもさざ波のようにしだれている。その影から、私は紫の着物をまとった女の姿を現した。

「おまえは、この藤の木、だな」

「なぜ、そんなことがわかる。私には、私がなぜここにあるのか、わからないというのに」

 私がそう言い返すと、男は肩を竦めた。

「なぜあるか、ね。なぜ、については、よくわからんところもあるが……この世にあるものは全て――そうだな、仮に気、としようか――そういうものを放っている。それらはときに凝り固まって、怪を為すことがある。木でも石でも動物でも、あるいは器物でも」

「それが私だ、と?」

「まあ、そんなところだ。特に、おまえのような存在は、十中八九、人の心に感応して化けたんだろうな」

 私は初めて己の心を意識したときのことを思い出す。確か、この家に訪れた客人が口さがないうわさ話をしていたときだっただろうか――

「では、人がおらねば私のようなものは生まれぬということか」

「いや。人以外の何かと感応することもある。そうして化けたものは、大抵は不可知な存在だ。人の言葉は通じない。思考も理解できない。人とは遠く隔てられたもの……」

 男はそこで、大きくため息をついた。

「本来、俺たちはそういうものに対処するのが専門なんだがな。近頃化けるようなやつらは、ずいぶん俗っぽくなっちまいやがった。仲間うちでも、人と木で夫婦めおとになるやつもいるくらいだ」

 夫婦という言葉に、私は思わず嘆息する。そして、あらためて思い返していた。今はもう、亡くなってしまったあの人のことを。

「私はずっと疑問に思っていた。あの人はなぜあんなにも穏やかなのか、と。そして、そんな姿を、いつの間にか愛してしまった……」

 男は無言で、私の話に耳を傾けている。

「しかし、あの人の満ち足りた姿は、心の内に愛しい人への思いがあったからなのだろう。私はそんな彼のために己を偽り、あまつさえ思い人の真似ごとなどしてしまった。私は愚かだった……」

 私が黙り込んでしまったのを見てとると、男は頭をかきながらこう言った。

「夫婦の形なんざ、人それぞれだ。そうでなくとも、長い間寄り添ったんだろうから、もう夫婦みたいなもんだろう。おまえは人じゃないんだから、それで納得しとけよ」

 男の言い草に、私はむっとして言い返す。

「お主は……人のくせに人の心の機微もわからぬのか。お主に、愛がわかるとも思えぬな」

「俺はこれでも既婚者だ。言っておくが、相手は人だぞ」

 その返答には釈然としないながらも、私はひとまず口を閉ざした。

「ともかく、だ。俺はここの家主に頼まれたという人物に、おまえを植え替えるよう依頼されている。この家は取り壊されるらしいからな。ただ、おまえのような存在は、勝手に移したりすると、へそを曲げて怪異を為すだろう。そこで、俺が呼ばれたというわけだ」

 私はあらためて己の姿を――藤の木を仰ぎ見た。

「あの人はなぜ、私がこの木であることに気づいたのだろう」

 男は呆れたように肩を竦めている。

「俺にこの仕事を持ち込んで来たやつも、おまえの姿を見たかもしれないと言っていたが?」

「それは盗まれた花を取り返したときのことだろう。しかし、私があの人に声をかけたのは、あの人が盲いてからのことだ」

 私の答えに、男は大きくため息をつく。

「花が咲いたとき、おまえはその人にこう言ってるんだよ。あなたにこの姿をお見せできないのが残念です、と」

 そうだっただろうか。覚えていない。しかし、姿は見えずとも、あの人はそんな何気ないひとことを気にしてくれていたのか。

 ならば、それでいいか――ふと、そう思った。

 私はあの人を愛した。あの人には愛する人がいたが、それでも私のことを気にかけてくれたのだ。それで充分ではないだろうか。

 男はあらためてこう問いかける。

「俺の名は片桐かたぎりだ。おまえを別の場所に移すが、かまわないな?」

「あの人が、願ってくれたことなら、私はそれを受け入れよう」

 私は男にそう答えた。

     *   *   *

掲載サイト:小説家になろう・NOVEL DAYS

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