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因果人 古木守抄-第四話

 店内は白熱灯の明かりでほの暗く、絶えず耳なじみのないピアノ曲が流れている。私が住んでいる村にはこんな小洒落た喫茶店などなかったから、どうにも居心地が悪かった。

 それでも、ここが待ち合わせ相手の指定する店なのだから仕方がない。私は落ち着かない心持ちで周囲を見回した。

 壁には一幅の絵がかかっている。若い女性が描かれた写実的な絵だ。後ろ姿なので顔は見えない。それでも途端に嫌な気持ちになって、私はすぐさま目を逸らす。

 そうして、ぼんやりと窓の外をながめているうちに、ふいに扉が開く音がした。

「遅れてしまって、申し訳ありません」

 入って来て早々こちらに歩み寄った女性は、そう言って私に頭を下げた。息を弾ませているのは、早足でここまで歩いて来たからだろうか。

「いいえ。かまいませんよ。人身事故だとか。むしろ、巻き込まれて大変でしたね」

 遅れたといっても、約束の時間からそれほど時間は経っていない。あらかじめ連絡はあったのだから、謝られるほどのことではないだろう。

 彼女は向かいの席につくと、注文を取りに来た店員にアイスコーヒーを所望した。落ち着いてから、話を切り出したのは彼女の方だ。

「事件のことを調べていらっしゃる、とか」

 私が無言でうなずくと、相手は険しい表情を浮かべて黙り込んだ。


 始まりは三年前のこと。

 私が住んでいるのは山間やまあいの小さな村で、娯楽など何もないような僻地だ。しかし、近頃はそうした田舎の方がむしろ趣があっていいと移住する人もぽつぽつといて、あるとき新進気鋭の画家と称される女性がひとり、村外れの一軒家に引っ越してきた。

 こんな田舎では、若い女性のひとり暮らしなど珍しい。当初こそ彼女のことを敬遠する者もいたようだが、人当たりのよさからか、若者たちにはすぐに受け入れられていた。

 大きな桜の樹がある家に住む若き画家は、村の娘たちにとっては憧れの存在だったらしい。そうした信奉者の中には私の妹もいて、彼女の元に集った村の娘たちは、絵のモデルになったり、あるいは絵の描き方を教わったりなどしていたそうだ。

 しかし、そうした和やかな日々も長くは続かなかった。

 あるとき、画家の元に通っていた娘がひとり、行方不明になったのが始まりだ。数日後、その娘は山中で惨殺屍体となって発見される。

 何もない長閑な村でのこと。殺人事件など縁があるはずもなく、ましてやそれが猟奇殺人などということになれば、村人たちはさわぐどころの話ではなかった。山に不審な男が潜んでいるだの、都会から逃げてきた殺人鬼が犯人だの、根拠のないうわさ話が飛び交う中、二人目の犠牲者が出たことで、村人たちの間にひとつの疑念が生まれることになる。

 犯人として疑われたのは、例の女流画家だった。

 確たる証拠はない。しかし、犠牲者がどちらも彼女の絵のモデルであったこと。なおかつ、見つかった屍体からは内臓が抉り出されていて、それが――あたかも何かを主張するかのように――周囲の木々に飾られていた、という異様さが、彼女の画家という特殊な職業と結びついたことは、それほど突飛でもないだろう。そう考えるのは、私がその画家にあまりいい印象を抱いていないからかもしれないが。

 それでも私の妹は、先生がそんなことをするはずがない、と信じて疑わなかった。私は妹に、あの女を庇うのはよせ、と忠告したのだが、気の強い妹がそれを聞き入れるはずもない。他の娘たちが画家を避けるようになる中、私の妹だけは彼女の味方をして、むしろ今まで以上に足しげくその家に通っていた。

 しかし、そうした日々も終わりは突然にやって来る。妹の死という形で。

 私の妹が無惨な屍体となって発見されたことで、画家の女はいよいよ孤立し追い詰められたのだろう。あるとき、首をくくって死んでいたところを発見された。

 そうして、この事件は一旦幕を閉じることになる。

 とはいえ、画家の女が犯人だという証拠はなかったようだ。それでも彼女の死後、凶行がぴたりと止んだこともあって、やはりあの画家による犯行だったのだろう、と村人たちの間ではまことしやかに語られるようになっていた。

 怒りの矛先を失ってしまった私は、それ以来鬱々とした日々を過ごすことになる。しかし、事件が終わったことに安堵した村人の多くは、このできごとを忌むべき過去として忘れ去ろうとしていた。

 ところが――

 それから一年ほど経ったある日のこと。今は住む者がいなくなった村外れの一軒家の、庭にある桜の樹に奇妙なできごとが起こる。

 季節は秋。周囲の山々が紅葉で赤く燃える中、その桜の樹は一夜にして満開の花を咲かせたのだ。

 それは、美しいと思うよりも、ぞっとするほどに異様な光景だった。加えて、狂い咲いた桜に不吉なものを感じた村人たちは、急ぎ向かった樹の根元で、とんでもないものを見つけてしまう。

 それは、手だった。肘の部分を下にして、まるで地面から生えているかのように突き立っている、血の気のないすらりとした一本の手。

 それを初めて目にしたとき、私は桜の樹の下に屍体が埋まっているのかと思った――が、掘り起こしてみても、そこに肘から先の部分はなかった。

 切断された手。それでも屍体には違いない。途端に大さわぎとなり、周辺を捜索したところ、山中から切断された残りの部位が次々に見つかった。

 村人の中に行方不明の者はおらず、犠牲者は遠くの街に住む若い女性だったことがわかる。それでも、村人たちの中には、これは亡くなった画家の祟りだ、と怯える者もいた。その樹は、画家の女が首を吊るした樹でもあったからだ。

 奇妙なできごとも相まって、この事件はセンセーショナルに報道された。警察による捜査が行われているが、犯人はいまだに見つかっていない。

 そうしているうちにも、その桜は二度も狂い咲いている。その度に、山中からはバラバラにされた屍体が見つかっていた。犠牲者はいずれも村の住人ではない。

 異様な状況に、村人たちは家に籠ったまま門戸を固く閉ざし、表を歩いているのは警察かマスコミばかり。その上、山の方で化けものを見たという者まで出る始末。もはやあの不吉な桜に近づくような物好きもいなかったが、それでもそれが四度目に狂い咲いたとき、私はひとり、その樹の下へと赴いた。

 たとえ真夏に咲いたとしても、桜は桜に違いない。とはいえ、こう何度も満開の花を咲かせていては、散りゆく花を惜しむ気持ちにもなれなかった。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている――などと言い出したのは誰だっただろうか。あるいは、この樹は本当に、他者の命を得ることでこの花を咲かせているのだろうか。

 妹に死をもたらした事件は終わったものだと思っていた。しかし、度重なるおかしなできごとに、私はこの件をあらためて調べることを決意する。

 そうして私は、とある人物に連絡を取った。


「今でも、信じられないんです。彼女がそんな、猟奇的な犯罪に手を染めていただなんて」

 待ち合わせの相手は亡くなった画家の知り合いだった。いや――画商をしているということなので、仕事相手と言った方が正しいのかもしれない。

 小さな村のことだから、外から人が訪れたときにはすぐにそれとわかる。私が知る限り、画家の元を訪れていた外部の人間は彼女くらいだった。

 私は彼女にこう話す。

「そのことについても、あらためて調べてみるつもりです。果たして、あの人が犯人だったのか。それとも、別に犯人がいたのか……」

 桜の狂い咲きに始まる奇妙なできごとは、先の事件と関連しているのか、それとも違うのか。どちらにせよ、凄惨なことが起きている事実には変わりがない。何より、私自身はこれらのできごとに何らかの関わりがあるのではないかと考えていた。

 さすがに、亡くなった画家の祟り――とまでは思ってはいなかったが。

「ともかく、私としてはそれを調べるための手がかりが欲しいのです。何かないでしょうか。どんな些細なことでもかまいません」

 しばし考え込んだ末に、彼女はおずおずとこう切り出した。

「ひとつだけ。今にして思えば、少し奇妙だな、と思うことが。私は一度見かけたきりなんですが、彼女の家には男がひとり通っていたようなんです。作業着姿の若い男で――ご存知ですか?」

 問いかけるような視線を向けられて、私は無言で首を横に振った。

「最初に見かけたときには、彼女が桜の世話のために業者を入れたのかと思っていたんです。でも、どうも違うみたいで。彼女の話では、桜の樹を見せて欲しい、と言って突然たずねて来たそうです。あまりにも見事だったから、と。そうして何度か彼女の元を訪れていたようなんですが――彼女はその男のことを、いい人ですよ、と笑って話していました」

 作業着姿の若い男。村の外から人が訪れたときには、すぐにそれとわかる。しかし、そんな男のことは知らなかった。どこからやって来たのだろうか。

 私が考え込んでいるうちにも、彼女はため息とともにこう話す。

「それにしても、バラバラ屍体だなんて。いったい、何がどうなっているんでしょう。今のところ、見つかったのは三人分……でしたよね」

 彼女のその言葉に、私は再び首を横に振った。

「いいえ。足だけが見つかっている分も合わせると四人です。しかも、見つかった分を合わせても、完全なものはひとつとしてないらしい。皆どこかしら足りない。つまり、屍体の一部が欠けているのだとか。もしかしたら、いまだ山中に取り残されているのかもしれません」

「恐ろしい話です」

 彼女は神妙な顔でそうつぶやいた。私は彼女の表情をうかがいながらも、淡々とこう続ける。

「奇妙なことなら他にもあります。何でも、山の方で頭のない化けものを見たのだとか……」

 この話には、さすがに彼女もけげんな顔をした。しかし、大真面目な私の表情から、それが冗談ではないらしいことを察すると、彼女はやはりため息をつく。

「いったい、何が起こっているんでしょう……」

 私たちはお互いに黙り込んだ。

 ともかく、彼女から引き出せる話はこれくらいのようだ。そろそろ切り上げようと考えた私は、先のことについてこう話す。

「近いうちに、山中に入って犯人の残した痕跡を探そうと思っています。山狩りも行われたようですが、警察には何も見つけられなかったらしい。しかし、屍体がそこにあったからには、何らかの手がかりが残っているはずですから」

 それまで溶けていくグラスの氷をじっとながめていた彼女が、思いがけずこう言った。

「その捜索、私も同行させていただけないでしょうか」

 それは意外な申し出だった。私が戸惑っているうちにも、彼女はさらに言いつのる。

「私も事件の真相を知りたいと思っているんです。どうか、お願いします」

 彼女に深々と頭を下げられて、私は内心でため息をついた。ただでさえ、山中での捜索にはさまざまな危険が伴う。自分ひとりなら覚悟の上だが、同行者の安全までは面倒見切れない。

 私はそうした事実を包み隠さず話したが、彼女が引き下がることはなかった。そうでなくとも、申し出を断ればひとりでも山の中に入るのでないかという勢いだ。彼女の熱意に折れて、私は条件つきで同行を承諾する。

 そうして、私たちは屍体の散らばるかもしれない山中へと足を踏み入れることになった。


 村の周辺にある里山には人の手が入っているので、まだ歩ける方だ。それでも道なき道を行くことにはなるのだが、そんなところは警察も調べ尽くした後だろう。向かう先はさらに奥。誰も足を踏み入れないほどに深い山の中だった。

 木々や下生えに何度も行く手を阻まれながらも、私たちは黙々と山中を分け入って行く。踏み固められてない地面にはすぐに足を取られ、時折現れる断崖絶壁は私たちの前に屹然と立ち塞がった。

 それでも同行者の女性はわずかな文句を口にすることもない。あるいは、心のうちではすでに後悔しているのかもしれないが。とはいえ、ついて来るからには私の方針に従ってもらう、というのが同行を許可する条件だった。

 何の手がかりも得られないまま二時間ほどさ迷った後のこと。私はふと、足元にひどく場違いなものが落ちていることに気づく。

 点々と列を成すように続いている、淡い薄紅色の小さな何か――それは、桜の花びらだった。

 他に手がかりもなかったので、私はその花びらを辿り始める。同行者は気づいているのか、いないのか、何も言わずに後ろをついて来ていた。

 そうして、しばらく進んでいたのだが、ふいに花びらの列は途切れてしまう。もしやどこかで見落としたのではと思い、その場で立ち止まり周囲を探したのだが、それでも見つけられず、何の気なしに一歩踏み出したところで――私の体は、重力によって下へと滑り落ちていった。

「大丈夫ですか?」

 頭上から慌てたような声が聞こえてくる。気づいたときには、私はすでに地面にへたりこんでいた。生い茂る草木のせいで、目の前の崖に気づけなかったらしい。

 私はとっさにこう答えた。

「大丈夫です。問題ありません。自力で上がれますから」

 痛みはあったが、動くのに支障はないようだ。どうにか立ち上がり、這い上がれる場所はないかと見回したところで、目の前に人ひとりが入れるか、というほどの洞穴があることに気づいた。

 私は思わず声を上げる。

「待ってください。ここに横穴が……」

 しかも、その洞穴はどことなく人の手が入っているようにも思える。それでいて、周囲にある草木で巧妙に隠されていた。

「そこで待っていてもらえますか。中に入ってみます」

 私は地上の同行者にそう声をかけると、答えを待つことなく、暗い穴の中へと進んで行った。

 洞穴は思いのほか深くまで続いているようだった。

 身を屈めて進んで行くと、そのうち行く手がほのかに明るくなっていることに気づく。のぞき込んだ先にあったのは開けた空間だ。

 天井には電球が吊るされていて、一部をぼんやりと照らしている。中央には汚れた布が広げてあり、工具のようなものが散らばっていた。そして、光の届かない隅の暗がりには――

 壁に寄せられた粗末な机の前に、作業着姿の男が座っている。こちらに背を向けているので、顔は見えない。しかし、腕捲りをした右手の、前腕部の辺りが妙に黒いのが目についた。傷跡か、それとも――

「そこにいるのは誰だ」

 私は思わず、そう問いかけた。

 男は身じろぎもせずに、こう答える。

「俺か? 俺の名は――桐生きりゅう

 私は同行者の話を思い出していた。画家の女の元に通っていたという正体不明の男。こいつがそうに違いない。

「こんなところで、何をしている」

「おまえこそ、こんなところに何をしに来た」

 桐生と名乗った男は、平然とそう返す。私は苛立ちながらも、それに答えた。

「私は殺人犯を探している。おまえがそうなのか」

 そう問い詰めた私のことを、桐生はせせら笑ったようだった。

「おまえ、あの村の人間だろう」

 私はうなずきもしなかったが、桐生は気にすることなくこう続ける。

「殺人犯を探しに、か。彼女を追い詰めて殺しておいて、犯人じゃなかったから、あらためて犯人を探しますってか?」

 桐生は声を上げて笑い出す。しかし、ふいにその哄笑をぴたりと止めたかと思うと、大きな音を立てて拳を机に打ちつけた。

「ふざけるな!」

 怒気を含んだ声と共に鋭い視線を私に向けて、彼はさらに捲し立てた。

「彼女は無実だった。それをおまえたちが追い詰めたんだろうが。自分だけ被害者だって面《つら》してんじゃねえよ」

 おそらく、画家の女のことを言っているのだろう。しかし、だからこそ、わけがわからなくなっていた。この男は殺人犯ではないのか。だとすれば、今までのことは、いったい誰が――

「殺したのは俺じゃない。だが、誰が殺ったのかを、俺は知っている」

「そう。だったら、あなたが屍体を持ち出して、バラバラにしたのね」

 涼やかな声は、私が発したものではない。地上に残してきたはずの同行者が、知らないうちに私の背後に立っていた。

「出たな。殺人者め」

 桐生はそう吐き捨てる。

 私は唖然として、女の方を振り返った。しかし、彼女は私のことなど意に介さず、冷たい視線で桐生をにらみつけている。

「そうね。でも、私の運はまだ尽きてはいないみたい。だから、あなたたちには死んでもらう」

 女の手にナイフが握られていることに気づいたときには、彼女はすでに私の方へとその切っ先を向けていた。

 女はそのナイフを流れるような動作で私の右上腿へと突き立てる。何のためらいもない行動に、私は身がまえることすらできない。

 痛みに呻くだけの私の姿を見てとると、女はその横を通り過ぎて、ゆっくりと桐生へと歩み寄った。もはや立つことすら覚束ない私のことより、得体の知れない男の方を用心しているのだろう。

 桐生は女の動きを軽蔑したような目で追っている。そうして、女が光の届かない暗がりの前を通った、そのとき。そこにうずくまっていた何かが、おもむろに起き上がった。

 何か。それは、人の形をしたものだった。しなやかな四肢を持つ細身の女性の体。しかし、その体の首から上には、本来あるはずの頭がなかった。

 頭のない化けもの――

 しかし、その化けものは頭の代わりに別のものを首に乗せている。本来なら骨があるだろう部分に接ぎ木のように刺さっているのは、満開の桜の樹。

 化けものは手にした斧を振り上げると、容赦なく女の頭に振り下ろした。斧は女の頭蓋骨を叩き割り、驚きの表情を浮かべた顔に食い込む。ナイフを取り落とした女が力なくその場にくずおれると、周囲にはみるみるうちに血だまりが広がっていった。

 赤く染まった地面の上に、はらはらと桜の花びらが落ちていく。私はしばし呆然として、その凄惨な光景を見つめていた。

「こいつが屍体をぐちゃぐちゃにするから、きれいなところをるのに苦労したよ」

 桐生はそう言って、女の屍体を冷たく見下ろしている。

 私は愕然としながらも、ゆらゆらと不安定に佇んでいる化けものへと目を向けた。その体のあらわになっている腕や足には、よく見ると継ぎ接ぎのような跡がある。

 見つかっていない屍体の一部は、まさか――

「他の部分はともかく、顔だけはどうしても適当なものが見つからなくてね。だが、これでいい。彼女には、これが相応しい……」

「人の命を何だと思っている」

 私は思わず、そう呟いた。しかし、桐生は女の屍体をあごで示しながら、冷淡にこう返す。

「殺したのはこの女だ。こいつはな、快楽殺人者なんだよ。あくまでも殺したのはこいつであって、俺じゃない」

 信じられないことが次々と起こる中で、私の思考は混乱していた。しかし、どうにか考えを巡らせる。

 私の妹を――若い娘たちを殺していたのは、頭を叩き割られたこの女だった。それでいて、この男は殺された者たちの屍体を集め、こんな化けものを作っていたらしい。しかし、なぜ――

 桐生は私に向かって、冷たく言い放つ。

「おまえも、彼女を追い詰めたうちのひとりだろう。人殺しはおまえの方だ」

 化けものがゆっくりと私の方へと歩み寄る。殺されるのだろうか。そう思ったが、恐怖のためか、それとも傷がひどいのか、私はその場から一歩も動くことができない――

「そこまでだよ。くそ野郎」

 悪態と共に突然この場に現れた何者かが、目の前の化けものを蹴り倒した。かと思えば、素早く間合いを詰めて、身がまえる桐生につかみかかっていく。

 その男も桐生と同じような作業着姿だった。男は桐生の胸ぐらをつかむと、怒気を含んだ声でこう詰め寄る。

「こんな外法まで使いやがって。何やってんだよ。おまえは」

 桐生は必死に抵抗しているが、どうやら新たに現れた男の方が上手うわてらしい。それまで見せていた余裕を失って、桐生は子どものように喚き出す。

「俺はただ、不条理を取り返しただけだ! 彼女が死ぬ必要などなかった!」

「馬鹿か。だからって、不条理に不条理で返してどうする。そんなことして、取り戻せるわけがねえだろうが。人として生きるからにはな。外れちゃいけねえ人の道ってものがあるんだよ」

 男はそう返しながらも、暴れる桐生の腕をひねり上げた。桐生はそれでも足掻き続け、その拘束から逃れようとする。

「彼女に罪はなかった! 彼女を呼び戻すことの何が悪い! それとも、こんな不条理を黙って呑み込めというのか!」

「そうだよ。残念だが、世間には悲しいできごとなんて掃いて捨てるほどにある。それでも、道を失わずに生きている人が大半だ」

 桐生の目には憎悪に満ちた炎が灯る。

 深い悲しみに沈む者にそんな理屈をかざしたところで、容易に受け入れられるものではないのだろう。私には、その気持ちがわかるような気がした。

 不条理に死んだというなら、私の妹もそうだ。妹は何も悪いことをしていない。男が言うように画家の女を追い詰めたわけでもない。むしろ、彼女のことを庇っていた。それなのに――

 それでも、この不条理を呑み込まなければ、いずれはこんな化けものを生み出してしまうのだろう。

 悄然としていた私に向かって、ふいに男が叫んだ。

「おい。後ろだ!」

 その声に振り向くと同時に、いつの間にか背後まで迫っていた化けものが私の首を絞め上げた。私は突然のことに戸惑い、もがくことしかできない。

「しっかりしろ。死にたくなければ、その桜の樹を引き抜け!」

「やめろ!」

 桐生の悲痛な叫び声が、暗い穴の中に響き渡る。

 私は必死になって手を伸ばした。満開の桜の樹が屍体の内に深く埋まっているのが見える――いや、根を張っているといった方が正しいか。

 目の前の化けものは、不条理に殺された者たちの成れの果てだ。どれだけ切に願っても、失ったもの、そのものを取り戻すことなどできはしない――

 私はどうにかして桜の樹をつかみ取ると、その手に渾身の力をこめた。ぶちぶちと肉が千切れる嫌な音を立てながら、それは屍体から徐々に剥がれていく。

 それでも完全に引き剥がすには、まだ足りない。

 力尽きようとしている私に気づいた男が慌てたように身を乗り出すと、その隙をついて桐生が拘束から逃れてしまった。男が、くそ、と悪態をついたときには、すでに姿は見えなくなっている。

 男は桐生を追うことなく私の元へとかけ寄ると、屍体と根一本でつながっていた桜の樹に手をかけた。男が力任せに引き抜いて、血まみれの桜を投げ捨てると、化けものは糸が切れたように動かなくなる。

 どうやら命は助かったらしい。そのことに安堵した私は、胸を撫で下ろす間もなく気を失ってしまった。


 あのできごとからしばらく経ったある日、作業着姿の男が私の家を訪ねた。

 客間で向き合ったところで、男はあらためて片桐かたぎりと名乗る。

「具合はどうだ?」

 片桐は真っ先にそうたずねた。

 右足の怪我はひどく、もはや以前のようには歩けないらしいが、あの状況で命があるだけましだろう。私は曖昧にうなずいた。

 あの後に何があったのかを、私は何も知らない。気を失ってしまった私が次に目覚めたときには、病院のベッドの上だったからだ。聞きたいことが山ほどあるような気もしたが、今さら聞いたところで何にもならないような気もした。

 だからこそ、私は片桐にこんな話を振る。

「桜は挿し木や接ぎ木で増やされるのだそうですね」

 片桐は虚をつかれたようだが、すぐにこう返した。

「染井吉野については、まあ、そうだな。各地に広まっている樹は全て一本の樹から始まっている。同じ遺伝子を持つ、いわばクローンだ」

「あの家にある桜の樹の枝を、新しく切り落とした者がいるようです。跡が残っていたのだとか」

 その言葉に片桐は、そうか、とだけ返した。

「また、あんなことが行われるのでしょうか」

 その問いかけに片桐は、さあな、と答えを濁す。

 私はそれ以上、何も言わなかった。

「何かあったら連絡をくれ。俺の仲間に話してくれるでもいい。各地を回っているし、右腕に刺青があるのがその証だ」

 片桐はそう言って、右腕の袖を捲ってみせた。そこには何かの植物がまとわりついているような絵が刺青されている。

 私はあの洞穴で見た男の姿を思い出した。

「そういえば、あの男の右腕は真っ黒でしたよ」

「あいつは、もう戻っては来られないところまで行っちまったからな」

 片桐は悲しそうにそう言った。

 彼が村から去ってからしばらくして、あの桜の樹は伐り倒された。家の方もいずれ取り壊されるらしい。

 右腕に刺青のある男とは、二度と会うこともなかった。

     *   *   *

掲載サイト:小説家になろう・NOVEL DAYS

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