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速水涙子
2024年7月18日 22:52
店内は白熱灯の明かりでほの暗く、絶えず耳なじみのないピアノ曲が流れている。私が住んでいる村にはこんな小洒落た喫茶店などなかったから、どうにも居心地が悪かった。 それでも、ここが待ち合わせ相手の指定する店なのだから仕方がない。私は落ち着かない心持ちで周囲を見回した。 壁には一幅の絵がかかっている。若い女性が描かれた写実的な絵だ。後ろ姿なので顔は見えない。それでも途端に嫌な気持ちになって、私
2024年6月30日 23:54
ひそひそと言葉が交わされている。家主が席を外している間に、口さがない客人たちがうわさ話でもしていたのだろう。それを廊下でうっかり耳にしてしまった。 己のことはどう言われようとかまわない。しかし、彼女のことを悪く言われるのは心が痛んだ。 わざとらしく咳払いをすると、声は息を飲むようにぴたりと止まる。相手が取り繕う間を与えてから襖を開ければ、澄ました顔の客人に迎えられた。 ただ、私の中に
2024年5月25日 19:25
歩いていると、ふと波の音が聞こえてくるような、そんな海辺の町で私は生まれ育った。 故郷の海はいつ見ても穏やかだ。たゆたう海面にきらめく波間。渡る風に乗って鳴き交う海鳥。潮の香りなんて、きっともう当たり前すぎて気にかけることも忘れていただろう。それくらいに、それらは私の一部だった。 けれども―― 海沿いの道に、ひときわ大きな松の木が生えている。その木は他の木とは違って、何百年もそこにあ
2024年5月18日 15:03
あらすじ:――古い木ってのはなあ。化けるんだ。山からやって来た男たちはそう語る。神隠しの影に見え隠れするのは、ひとりの少女の姿。あなたはここにはいられない。少女に手を引かれ向かった、御神木の先にある景色とは――「霧立人」海辺の町にある、大きな松の木の下で起こった悲しい事故。たとえ一度きりだとしても、またあなたと会えるなら――亡き人を忍び訪れた夏祭りで、私は彼と似た何かと出会う。