『読書からはじまる』(長田弘)〜読書とは「言葉」を蓄積するもの。でも本が存在しないと私たちは「言葉」を失う。〜
Twitterのフォロワーさんの紹介で本書を知り興味を持ちました。
だって、『読書からはじまる』なんてタイトル、読書好きにしてみたら魅力的じゃないですか笑
「読書」についてどんな新しい意味づけが得られるのか、期待しながらページを開いていきました。
著書の長田弘さんは、詩人であり、児童文学作家であり、文芸評論家であり、翻訳家であり、随筆家といういくつもの肩書を持つ人だそうです。(2015年に亡くなられています。)
本書で初めて著書を読むことになったのですが、本書のような深みのある本を書けるなんて只者ではないんだろうなと。
著者のいう「読書」の意味はかなり広いのですが、私の理解力では最後まで何をもって「読書」というのか、はっきりとイメージすることはできませんでした。
ただ、すごく大切なことが意味されているようには感じます。
私なりに理解できたところで言えば、「本」を読むことだけが「読書」ではなく、本を読まずとも自分の中に大切な「言葉」を蓄積していくことが「読書」だということです。
自分を自分たらしめる「言葉」であったり、日本人を日本人たらしめる「言葉」であったり、そういう「言葉」です。
文字どおりの「言葉」ではなくて、”アイデンティティ”とか”文化”と表現してもよいかもしれない。
そういう意味での「言葉」。
それを蓄積していくのが「読書」だと言います。
そうした「言葉」を蓄積して、自分を形づくっていくことは、「本」を読まなくても可能だというのはなんとなくイメージできます。
著者は「本を読まなくても」と言いますが、本の存在がなくてもよいとは言っていません。
なぜなら、本の存在そのものが、言葉の広がりを担保するものだからです。
本を読むか読まないかに関係なく、本が存在することで、自分が蓄積しようとする言葉が存在しうる。
本が存在すればするほど言葉が豊富に存在するようになる。
逆に、本を読まなくても言葉は蓄積できるけれど、本が存在しない場所には、そもそも私たちが蓄積するべき言葉が存在しない。
たぶん、本書の最初に「本という考え方」とか、「本の文化」とか表現されているのは、こういうことだと思います。
すごく深い感じがしますよね。
以上は私なりの理解ですが、こうした理解が正しく著者の考えを捉えられているとは思いません。
もっともっと深いのだろうと思います。
でもすごく良い考え方だと思いますし、きっと正しいのだろうと思います。
ただ、こうした深い考えというのは、なかなか数値として証明できるものではありません。
効率万能主義の現代において、こうした、ある意味情緒的な考え方というのは、正しいのだけれどなかなか共有できるものではない。
だから、効率的でないもの、結果が出ないものとして本の集積地である図書館が閉じられたりしてしまう。
数値化できないという理由でこうした情緒的な考え方が切り捨てられてしまうと、私たちはどんどん「言葉」を失っていき、自分の首を絞める結果になっていくんですけどね。
こういう本がもっともっと読まれて欲しいなと思います。
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