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仕事と趣味の境



 仕事と趣味の境について。
 大きな違いはそこに発生する金銭の流れ。入ってくるのか出ていくのか。中には趣味の延長線上で金が入ってくることもあるが、それはまあ置いておくとして、
 じゃあ覚悟、熱量の面ではどうだろう。
 仕事は生きて行くための術、足元。だから比較的高い熱量を持ちやすい一方で、趣味はリフレッシュを目的とするもの。あくまで余暇に楽しむものであり、定点で高い値を叩き出すことはあっても、基本その場その場で完結するもの。
 
 じゃあベース、金銭を得るために必死になるのが仕事で、そのリフレッシュとして金銭を支払うのが趣味だとして、究極仕事と趣味が一致している人が最もコスパがよく、幸せの絶対量が多い。
 何だってそうだ。好きには勝てない。好きの気持ちが強い方が勝つ。逆転するとしたら恋愛だけ。好きは無敵だ。だってそこに理由なんてない。利益度外視。「ただ好き」は無償。差し出すコト、モノ、時間、全てがバフになって、オートで膨らみ続ける。そうしてまだ差し出せるものはないかとした時、時間が存分にあるというのは何事にも勝る。
 無論、好きなことを仕事にするための、対価として成立するパフォーマンスは必須。そこに落差が生じないだけの覚悟ありきに違いない。話を戻す。
 
 じゃあベース金銭を得るために必死になる、時間を差し出すのが仕事で、そのリフレッシュとして金銭を支払うのが趣味だとしたら、金銭を支払いながら必死になるのは一体何なんだろうという話。
 いつだったか、どこかのお偉いさんに「人生を楽しむために生きてるんだから、仕事に埋没しちゃダメ」的なことを言われて、確かに、と思ったことがある。ただ一方で田沼意次の「御役を果たすほど愉しいことはない」も分かる。この仕事を好きだと思えることは何にも代え難く、何より仕事が充実していると、きちんと生きている感がある。結果どっちの言い分も分かる。
 
 じゃあ金銭を支払っている以上、自ら求めているものとして、加えてそこにい続けるために必死になる熱量や差し出す時間が、例えば仕事に等しいとした時、「それ」は覚えず仕事以上の価値を持ってしまっていると言えなくないか。「やりたくてやってる」それはもはやボランティア(絶対違う)
 実際今同じテニスコートに立つ人達は、一趣味だなんて絶対思ってない。たぶんみんな仕事しに来てる。受験勉強の気分転換で国語の次に数学やるみたいな、皆が皆ダブルワーカー。
 ほんでシーソーみたいにガッタガッタしながらバランス取ってる。仕事だけじゃない。いろんなバランスをとりながら、それでも必死に愛そうとする。「恋をするように仕事をしろ」というヤツ。高い温度は恋にならざるを得ない。そうしてぶつけ合う。自分の方が好きだと。実際年齢なんて関係ないんだという癇癪に、私でさえたびたびぶつかることがある。実にくだらない、幼子の喧嘩そのもの。
「テニスは健康にいいスポーツ」だなんて、私だけは信じない。夢中になるほどにテニスはストレス。睡眠時間を削られ、練習のために時間を削られ、こうして吐き出すために時間を削られ、ブルーライトで深い睡眠を削られ、結果山田さんに貢ぎ続ける日々が生まれる。テニスがあるためにいろんなところに皺寄せがいく。「お酒は適量なら健康にいい」と全くの同義。酒飲みはそんなこと言いながら適量でやめてなんかいない。
 
 そうして、一定以上の熱量を持つものを金銭の流れ関係なく仕事と分類した時、浮かぶ思いがある。いつの日にか耳にした〈僕とテニスどっちが大事?〉
 あの時は「なくても生きていけるもの」として退けた。けれど同時に思ってもいた。仕事と僕なら仕事だと。参考までに当時の記事を引っ張る。2021年10月に書いたものだ。
 
 

〈ふと思い出したことがある。
「僕とテニスどっちが大事?」
 仕事と私どっちが大事、というのは聞いたことがあるけど、僕とテニス。
テニスは仕事じゃない。あくまで趣味の延長線上。僕は、どうだろう。それでも。
「おかしい」
 ハッとする。
「テニスの話をする時の君はおかしい」
 旦那にそう言われた時、妙にしっくり来たのを覚えている〉
 

 
 当時は「だから違う」として明確に棲み分けできていた。けれど後に「どっちも大事」としている。そうして今、仕事と趣味の境で「金銭の流れ、そこに発生する熱量」どちらを基準に区分するかによって、この競技との向き合い方自体も変わってくる。
 
〈旦那との関係を「共に仕事をするか共に生活するか」悩む程度には仕事に重きを置いていた〉
 
 仮に趣味が仕事を上回ってしまうことがあるとしたなら。
 罪悪感の正体。得体の知れないものの輪郭がうっすら浮かび上がってくる。
 







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