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外から見た景色【前編】



「いいよ、残りやっておくから先休んでて」
 そう言って足元に転がっているボールを拾い集めるそのつむじを見下ろす。
 何の感情も湧かないことを退屈と称するのなら、なるほど、そうだったのかもしれない。

 ふらりと訪れたのは、テニススクール、夜間とある中上級クラス。入構希望ならまだしも、純粋な見学というのは初めてのケースだという。
「いやあ、向上心があるねえ」
 数年前「速水さんは誠実なテニスをする」と声をかけてくれた、パッと見5歳ぐらい年上のコーチは、コートと通路を隔てるネットのそばまで寄ってくると「中級じゃ退屈になった?」と聞いた。すぐに返答できなかったのは、「退屈」にくくってしまうには強烈なバケモノが脳裏をかすめたからだ。
 言うなれば私個人も中級に見合っているか分からない。それは自分の輪郭を正確に把握できない面々によって、自分にとって至高とも言えた一つの世界を壊された経験を彷彿とさせる。自分自身がそうなる可能性を孕んでいると思うと怖かった。こと、この聖域においてこそ、誰よりも誠実でありたかった。

 まごついた私に、言葉が強かったと思ったのだろう。コーチは「今はネットの上を通す高さを限定したラリーの練習をしている」と続けた。
「2年かかってやっとここまでスピードを落とせた所。最初すごかったんだよー。ホラ、みんな若いでしょ? 本気でバンバカ打ち合っちゃって」
 言いながらコートを振り返る。
「やっとじっくりラリーをするってことに慣れてきたみたい」
 コートは2面使って計8人。一面4人でストレートラリー。コーチは我慢させることを「かせ」といった。足枷の「かせ」だ。
 ラケットの面。打出しの角度。後ろ重心。正直キレイだと思う人間は見当たらない。見る角度によって違うのか、バウンド後の伸びもそこまでではないように思える。
「中級と中上級の違いはね、ほとんどないよ。ただ、ここにいる人たちは毎週試合に出ていて、単に打ち合うんじゃなくて、視野を広げたテニスを教えてる。技術というよりは精神論かな? だから中級と中上級の違いっていうのは、ファン(生徒)よりコーチにとっての明確な区分なんだ」
 打球音。奥の人間がラケット2本分の高さを通して、手前の人間がベースラインで高い打点から打ち込む。強弱セットの一つのリズム。

 すごいと思ったのは、聞いてもいないのに「今の私」に必要な答えをくれたこと。
〈2年かかってやっとここまでスピードを落とせた所〉
 私自身、中級に来て早一年。それまでもずっと言われ続け、3年も4年もかけて〈やっとここまでスピードを落とせた所〉
「かせ」はただ我慢することじゃない。つけた中でもギリギリを調整する。相手の打球に合わせて、時に7から8に。7から6、5に。ものすごく理性のいる負荷は、けれども結果的に安定したラリーを生み出し、ついでに練習効率も上げた。
〈キレイだと思う人間はいない〉と思った。その、今毎週のように見ているものとの違いが感じられないことに対して、すかさず入れられたフォロー。


 けれど案じられなくてもがっかりすることはない。初級と中級も実力的に大差はなかった。ただ、今はもう初級に戻るつもりはない。仕事と一緒で、その立場にならないと分からないことがある。その代表として、制限されたラリーやそこを基点として続く課題。そんな、「そこにしか発生しない緊張感」が挙げられる。当たり前だが、制限されたボールを打てなきゃ練習も始まらない。失敗することで相手の練習時間を削るという明確なリスクを負う。ただ打ちたいように打つだけの初級とは、一打にかかるプレッシャーがまるで違う。
 コーチは「僕たちにとって初心者と初級は全く違って、初心者ほど一生懸命打つんだ。レベルが上がるほどに、むしろ球速は落ちていく」と続けた。
 ソウさんの力の入らないサーブ、スマッシュ。ひこにゃんのハイボレー。
 パンパカピーポーもパンパカ打つだけじゃない。自分のしたいこと、出来ること、輪郭を分かった上で、今必要となる動きをする。見た目よりずっと力強い打球。力を入れるポイントが分かっているから、それ以外を抜ける。

 その後、練習メニューを変えるたびに解説が加えられた。
「スマッシュは身体の右側で捉える。肘は伸びない」
「ボレーは横を向いてインパクトする」
「ミスしやすいのはリターンと、何でもないボール。絶対技術的に上なはずの人が、試合だと負けるんだよ。そうして実際勝つのは何もしてこない人だったりする」
 耳タコ案件。今のコーチにも同じことを言われている。分かっていてできない生徒は、申し訳なさで一杯になる。
 加えて、一際印象に残ったのは「ボレーで打点を少しだけ遅らせるっていうのがなかなかできなくてね、今みんな練習しているところ」というもの。
 だてんをすこしだけおくらせる。
 単語の一つひとつ分解するとよく分からなくなってしまう。けれど耳にした瞬間、ストンと腑に落ちるものがあった。それは確実に私に足りないものの一つだった。





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