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(7/9)展望、2


 純粋にゴールに向かうルートとは別に、この競技を通じて何がしたいかで考えた時、いくつか見えたものがあったので追記する。


【1、絵を描きたい】
 漫画『ベイビーステップ』に岩佐博水という高校2年生のキャラクターが出てくる。この子は自宅で絵を描くことを禁止されているために「試合中にボールを使って絵を空中に描いたりコートに描いたりする」
 初めて見た時鳥肌が立った。それはひとつの「答え」だった。

 私に絵は描けない。けれど自分が美しいと思う線を空中に引くことはできる。感性を表現することができる。私がしたいのは「ギリギリ仕留められない、終わらせないために打ち切られないコートをつくる」ことであり、決め球を打たない代わり、相手にも打たせない。リスクと迷いを生み出すことで、結果私の求めているものは手に入る。だからこだわるべきは「何本線を引けたか」であり「どれだけ美しい線を引けたか」で、これは同時に感情的になりやすい自身のマインドコントロールにも繋がる。

 一方でダブルスに限定した時、ここに新たな線が加わる。
「終わらせない」はベースの「創造」、ここに強制的に終わらせる「破壊」が加わる。曲線と直線。ロブとスマッシュ。トップスピンとフラット。本来あるはずのないもの。自分には描けない力強い線が引かれる。コントラスト。見るも鮮やかに、喉元を掻っ切る。
 だからダブルスは楽しい。10メートル×11メートル×13メートルの大きな大きなキャンバスに、最終自分だけでは描けない絵が出来上がる。私の感動はそこにある。


【2、自分に完結しないテニス】
「楽しい」「気持ちいい」というのはあくまで主観。もし仮にこの競技に恋する人を増やしたいとした時、つらつら書いて理性、損得感情に働きかけるなんてまどろっこしい。一瞬で落とす。必要となるのは絵としての説得力。
 見ていてキレイと思うか。自分もそうなりたいと思うか。
 向かいたいのは自分に終始するテニスではない。周囲を巻き込むテニスだ。

【3、孤独を楽しむ】
 以前失恋して一人で奈良までドライブをしたことがある。その時見た景色がやたらキレイで、「悲しいことがあるとやたらキレイに見える」(村山由佳さん『星々の舟』より)というのは間違っていないと思った。ただ一方で、そのこと自体必ずしも「悲しい」だけじゃなかった。
 何をするにしても自由で、その寂しさ、静けさは「自分が今何を欲して」「どうしたいのか」という、自分と向き合う時間にピッタリで、けれどそんなこと抜きにしても、この耳の凍るような静けさは、ある種の贅沢に思えた。
 元来シングルスプレイヤー。
 ごくたまに一人で立つコートは広くて心許ない。でも怯えるのは勿体無い。全て自己責任故に、どこまでも自由。それはそれで尊い。
 加えて、立ち返ることで自分の輪郭がより鮮明になり、それはきっと客観との差異を埋める大きなヒントになる。



 いつだって誰かを通じて得られる自信に縋っていた。
「ゆっくり」「内に」潜っていく心地よさ。
 今誰かに執着することはない。「それ」はもう自ら生み出せる。
 これからは、その時その時好んだところに現れる。





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