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本来の散歩の仕方を忘れてしまった私たちには、それを取り戻すためのリハビリテーションが必要であるーー島田雅彦『散歩哲学 よく歩き、よく考える』プロローグ全文公開

散歩をこよなく愛する作家・島田雅彦が、移動し考えることの自由を綴った『散歩哲学 よく歩き、よく考える』(ハヤカワ新書)。池袋、高田馬場、阿佐ヶ谷、十条、神田、新橋、登戸、町田、ヴェネチアなど各地を実際に歩きながら、人類史と文学史を「散歩」という視点から語り直す画期的エッセイです。2月21日発売の本書から、プロローグを全文公開します。

『散歩哲学 よく歩き、よく考える』島田雅彦、ハヤカワ新書、早川書房
『散歩哲学』島田雅彦

チャランポラン

たとえば、午後3時半。その日の仕事が片付き、ポッカリと時間が空いたとする。何処へ行ってもいいし、何をやってもいいとなれば、用や意味がなくても、自ずと、ふらふらすることになる。それが自然の成り行きというものである。人の身体はそのようにできている。移動の自由の行使は本能に由来するといってもいい。移動の自由はたとえ国家や社会、支配者からそれを制限されたとしても、決して譲り渡してはならない権利である。私たちは飢餓や暴力の恐怖に晒されたら、今いる場所から逃げ出す権利を持っている。差別やいじめに遭ったら、その不愉快な境遇から抜け出す自由を持っている。散歩はその権利と自由を躊躇なく行使するための訓練となる。

運動不足解消のために中高年がやっているウォーキングと一線を画すために、あえて徘徊と呼んでもいい。用もなく、ほっつき歩くことをペルシャ語では「チャランポラン」という。まるで自分の態度や生き方にも当てはまるコトバだが、漠然とどこかをほっつき歩きたい時の精神状態は確かに、「チャランポラン」という表現がふさわしい。

会議をサボり、仕事も途中で投げ出して、気ままにぶらつきたい。そう思わない人がいるだろうか? 徘徊は太古からの人類の習癖だ。ヴェネチアやフィレンツェ、プラハなどヨーロッパの古都は、人々が意味なくほっつき歩くために設計されたとしか思えない。その証拠にどの町にも徘徊者同士が出会う広場があり、すれ違う橋がある。今述べた小さな町では見知らぬ徘徊者同士が1日に3回顔を合わせることも珍しくない。

日頃から「退屈な仕事に忙殺されて暇がない」という状態で生きている者はなおさら、暇な時間を自分の楽しみのためだけに費やし、退屈を忘れたいと思う。だが、暇と退屈を自由気ままに使いこなすのは、案外難しい。ブルシット・ジョブに慣れ過ぎた身体をいざ気ままに動かそうとしても、なかなかうまくいかなかったりする。散歩は暇を潰し、退屈を埋めるための最も基本的な行動である。誰かのせいで暇を奪われ、退屈を強いられているなら、自
分を解放するために最初に取るべき行動、それが散歩である。

散歩にはお供が欲しい。しかし、ちまたの人々はまだ仕事の真っ最中で、急ぎ足で目的地に向かったり、会議や打ち合わせの最中だったりするので、誰も私の徘徊に付き合ってくれない。暇人は孤独なのである。下町を一人で徘徊していると、自分にはその気がなくても、背中に哀愁が漂ってしまうらしい。そんな背中を他人に見られたくないという時に電話一本で馳せ参じてくれる友人は何人くらいいるだろうか? アカサタナの順に、突然の誘いに応じてくれそうな人を探しにかかる。Aはきっと締め切りに追われているだろう、Bは午後8時過ぎまでは身動きが取れないだろう、Cは家が遠いから億劫おっくうがるだろう、などとそれぞれの都合を配慮しながら、候補を絞り、順に電話をかけてみる。

──これから赤羽に昼飲みに行かないか?

「なぜ」と聞いてくる相手は望み薄だ。用もないのに呼び出すな、と内心思っていることは間違いない。「行きたい」という返事は悪くないが、実際には行けないことが多い。私は「一時間後なら」という答えを期待しているが、なかなかそうはいってくれない。「もっと早くいってくれれば、都合をつけたのに」という人もいるが、残念ながら、先週はその気にならなかった。

贅沢をいえば、若いイケメン二人を太刀持ち露払いに仕立て、横綱みたいに颯爽と町を行き、気取った通行人たちの注目を集めたいところだが、結局、徘徊のパートナーは現れず、一人で出かけることにする。ほっつき歩く場所がいつも同じでは飽きてしまう。できれば、行ったことのない町に我が身を放り出して、一番街とか何とか銀座と名付けられた商店街をそぞろ歩きたい。よそ者なのに、地元民のふりをして。当然、犬も歩けば棒に当たる。居心地がよさげな居酒屋、怪しげなスナック、主婦が行列している惣菜の店、いつからそこにあるのかよくわからない地蔵や稲荷神社……よそ者の目にはどれも意味深で、魅惑的で、謎めいている。

ともあれ、通りすがりの店に飛び込み、気付のビールを飲む。下町は四時頃から居酒屋が開いている。場所によっては朝から営業中で、謎の遊民たちがテーブルに陣取り、酎ハイのお代わりなどしながら、東スポを読んでいたりする。私は寡黙に、しかし愛想よく、客と主人の会話を聞いている。そして、その町の人々の暮らしぶりが伝わってきたら、私の徘徊の使命の一つは果たされたことになる。

飽きたら、また次の店へ。今度は小綺麗な構えの、白木のカウンターがある店で刺身などつまみ、腹が満ちたら、怪しげなスナックを覗いてみる。たまたま銭湯の前を通りがかったら、一風呂浴び、「チャランポラン」を続ける。

心にゆとりがないと、ヒトは気宇壮大なことは考えられないし、未来を設計したりもできない。一個の脳で考えられることには限界があり、他人の脳味噌を借りる必要がある。本日も初めて訪れる街や見知らぬ他人からインスピレーションをもらうために徘徊に出かける。お供がいなくても、本書があなたの手を引く。

よく歩く者はよく考える

昔から思索家はよく歩く。哲学者然り、詩人然り、小説家然り、作曲家然り……よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ。

カントの日課は朝起きて、紅茶を飲み、煙草を一服し、軽い空腹状態で生涯を送った町ケーニヒスベルクの森をそぞろ歩くことから始まった。『永遠平和のために』という晩年の著作も、旅先のオランダで散歩中に旅館の看板に「永遠平和」とあったことから着想したという。そのように偶然目にしたものから、インスピレーションを得ることがある。

詩人もまた、商人のようによく歩いた。「恋愛」を発明したのは、吟遊詩人だった。

詩人は単に詩を作るだけでなく、自らの足と声でヨーロッパを歩き、コトバの呪術を広めた。その意味で、彼らはメディアでもあった。

古代の英雄叙事詩『オデュッセイアー』の1万2000行も吟遊詩人によって、各地で朗誦され、約200年かけて、人気演目となったのだった。また彼らはアラブ世界の知と美の体現者でもあった。彼らは地中海を越えて、アラブの知的伝統をヨーロッパに持ち帰り、それぞれの故郷の言語に翻訳し、ルネッサンスの下地を作った。

ダンテもそんな吟遊詩人の一人である。彼は故郷のフィレンツェを追放され、永遠の恋人を思いながら、流浪の半生を送ったが、一方言に過ぎなかったトスカナ語で綴った『神曲』はのちに自分を追放した法王庁の喉元に刃を突き付けることになった。

人は誰しも左右一対の脳を持っているけれども、その脳を常に刺激し、快楽で満たしてやらなければならない。知的営みは恋愛に似ている。恋愛がDNAの多様性を求める本能に動かされて、相手を選ぶように、知性も異質なものから刺激を受け、自らを試練にさらすようにして成長する。だから、思索家は好んで、自らを異郷に置いてみたがるし、さまざまな他者と対話を試みるし、奇妙なもの、わけのわからないものを目の前にして驚きたがる。

どれだけ突飛な発想ができるか、そしてそれにどれだけ説得力を持たせることができるか、アーティストという人種はそれを自らの肉体や脳を用いて実験する。その意味でアーティストにはアスリートにも通じるところがある。アカデミズムは「要素還元」的な学問風土の下、専門の枠内に学者を囲い込んできた。しばしば、わからないことは追求しない、関係のないことはしない、回り道を避けるといった態度を取る。だが、それは知的怠慢をもたらしかねない。むしろ、わからないことを追求し、関係のないことを積極的にし、回り道を重ねる方がもたらされるものは多い。学者もアーティストも自分のフットワークを鍛え、その落ち着きのなさ、挙動不審ぶりを誇るべきだろう。脳に忠実な生き方というのがあるとしたら、その雑食性にとことん付き合うという態度に現れる。 

作家の古井由吉氏も、散歩を創作上、必要不可欠なものと位置付けていた。亡くなった後に御宅を訪問し、夫人に生前の生活ぶりを聞いたことがあるが、古井氏は一日に二度の散歩を欠かさなかったという。やはり彼も散歩途中に過去の出来事や交わりを持った人々を思い出し、現在に過去を重ね合わせ、現世にあの世を介入させていた。古井作品の多くも、日々の散歩での発見の積み重ねであり、その集大成だったといえる。夜は読書の時間に充てたそうだが、書斎に並んでいた本は、煙草のヤニで茶色く変色した「古代ギリシャ悲劇」の原書だった。その前は「唐詩選」などの漢詩を原文で読んでいたという。

読書も、テキストの森に踏み込み、コトバと出会い、刺激を受けるという意味では、散歩なのである。そして、散歩は街や山谷に埋め込まれた意味やイメージを発掘するという意味では、読書なのである。古井氏は遠い過去の文献をオリジナルの言語で読んでいた。やはり翻訳では伝わらない言霊のようなものがあって、それに触れるために原文に当たっていた。辞書を引きながら一句一句の原義に触れながら、2400年前と1300年前の作者と直に対話していた。それは一種のタイムトラベルの経験でもあった。

現代人のリハビリテーション

散歩に出れば、日々、むき出しの現実、不確定な他者と出会うことができる。直接、生身と向き合うがゆえに、他者の未加工の感情、その人が体内に囲っている微生物や菌にまで触れることとなる。生の現実、生身の他者からしか得られない、はるかに多くの情報にまみれることになる。

現代は思考の効率や合目的性が重視され、今すぐに使える情報ばかりが求められている。スマートフォンを片手に何事もショートカットで済ませ、寄り道を避ける傾向はより顕著になった。しかし、知性や教養というのは、いかに無駄な知識を溜め込んでいるかということに尽きる。スマートフォン経由で得られる情報など今すぐ手に入るので、誰でも知っている。しかも、九割以上が既に垂れ流された情報の引用、盗用に過ぎず、フェイクやデマばかりだ。ChatGPTを使えば、もっともらしい、平均点以上のレポートや報告書、感想文は書けるし、既視感あふれる詩や小説も捏造できるが、その産物からは感情や善悪が欠落している。そもそも生成AIには無意識の領域がなく、夢も見なければ、妄想もしない。そのくせ人間同様、デマを流したり、フェイクを作ったり、すぐバレる嘘をついたりする。いっそ、人の手を煩わさなくてもいい仕事を全て生成AIに押し付けて、空いた時間に散歩にかまけるのが最も賢い選択となるのではないか。

外を歩いていても、スマホを手放せない私たちは、本来の散歩の仕方を忘れてしまったので、それを取り戻すためのリハビリテーションが必要である。

本書は歩きながら考える「散歩哲学」を提唱する。カントもルソーも散歩の達人で、その日々の散歩中の思索から先駆的な社会思想、平和論、教育論を打ち出した。そのひそみに倣い、読者を思索の森への散歩に誘う。


この続きは、ぜひ本書でご確認ください!(電子書籍も同時発売)

【通常版】

【NFT電子書籍付】

本書目次

プロローグ
第1章 人類史は歩行の歴史
第2章 散歩する文学者たち
コラム① 「歩く」にまつわる言葉
第3章 孤独な散歩者の役得
第4章 ニッチを探す散歩
コラム② 縄文の視点から東京を眺める.
第5章 都心を歩く ──十条・池袋・高田馬場・阿佐ヶ谷
第6章 郊外を歩く ──登戸・町田・西荻窪
第7章 角打ち散歩 ──新橋・神田
第8章 田舎を歩く ──屋久島・秋田
エピローグ
主な参照、引用文献

著者略歴

(写真:古谷勝)

1961年生まれ。作家。法政大学国際文化学部教授。東京外国語大学ロシア語学科卒。1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞、『君が異端だった頃』で読売文学賞を受賞。近作に『空想居酒屋』『パンとサーカス』『時々、慈父になる。』など。2022年紫綬褒章を受章。

記事で紹介した書籍の概要

『散歩哲学 よく歩き、よく考える』
著者:島田雅彦
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年2月21日
本体価格:980円(税抜)

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