《半可通信 Vol. 18》 一分も道理なき悪と物語の危機

 長らく更新を空けてしまった。コロナ禍のせいということにしておく。うん、多分そうだ。

 突然だが、NHK大河ドラマの「太平記」が大好きだった。放映を食い入るように観、録画(当時はビデオテープだ)を繰り返し観た。元々そんなにTVドラマや映画を観ない身としては、異例なほどの入れ込みかただった。
 もう30年近く前の作品なので、ご存じない方も多いと思う。吉川英治の「私本太平記」を原作に、おそらくはかなり解釈をふくらませて、鎌倉滅亡から南北朝期にかけての社会的混乱を、足利尊氏とその弟・直義を軸に描いたドラマだ。かつて逆賊扱いされた尊氏をその先入観から解放し、悩みつつ決断し、後悔しつつ前へ進む一人の人間として描いたところに最大の魅力があった。
 尊氏だけではない。兄を敬い、政権を支えながらも後に対立し、確執の末に敗れる直義も、南朝に忠誠を尽くして壮絶な討ち死にを遂げる新興領主・楠木正成も、悩みに悩んだ末に「これが世の民のため」と思って行ったことが更なる争いを生み、そのことに悩み苦しむ。誰もが自分の置かれた状況と限りある力のなかで最善を尽くしながら、それが悲劇を生んでしまう。そういう、いわば人間の悲劇性の本質的なところに迫ったドラマであったからこそ、繰り返し繰り返し観たのだと思う。
 しかし、今の時代になってこの大河版「太平記」を思い出しながら、もしかしたら既にこのドラマが物語として意味を持たない世界に、われわれは生きているんじゃないか……という考えにときどき囚われるのだ。

 「人にはそれぞれ事情がある」という言葉があるように、どんな非道や悪事を為す者であっても、本人にはそうせざるをえない止むに止まれぬ理由やいきさつがある、というのは、かつては共有されていた見方だったと思う(常にそのように見ることの難しさはさておき)。しかしこの8年かそこらの間に、これが通用するとは到底思えない振る舞いを、権力の中枢にいる連中が夥しい数積み重ねてきてしまった結果、「悪は悪であって、人としての事情なんぞないのではないか?」という考えを振り払うことができなくなってしまった。
 国家権力、あるいは地方自治権力のことだから、本当であればどんな悪政を敷く首長や組織であっても、そこに住む人全部とは言わないまでもある一定の、あるカテゴリの人々のために良かれと思ってやっていることであれば、そういう立場もあるだろうと理解もできるし、議論をたたかわせることもできる。しかしそれが、個人的な激しい思い込みだったり顕示欲だったり、縁故者や個人的な関係者を利するためだったりするともう、そこにはドラマ「太平記」のような、人間の事情の綾が存在できる場所は見つからない。百歩譲って、そこまで大きな権力を持たない者が、個人的な生い立ちや経験のなかで受けた傷のために悪をなし人に害を及ぼすという悲劇ならば、確かに物語として書かれてきたし、そのように受け止められなくもないが、都であるとか府であるとか、それどころか国全体にまでその影響を及ぼされてしまっては、とてもそんな「物語」を享受できる余裕などこちらが持てるはずがない。それにそもそも、そんな「事情」すらあるのかどうか、わかったものではないのだ。

 一分ほどの道理もなく悪が悪を為すことを、あまりに長い期間にわたって許してきてしまった結果、この国のモラルは崩れた、とよく言われる。だがモラルだけではなく、物語という感受性と美意識の宝箱もまた、いま崩壊に瀕している気がしてならない。
 ドラマ「太平記」を人の世の真理の一面として、目を腫らしながら観ることができる日はまた来るだろうか。そうあってほしいのだが。

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