【感想】NHK 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 長宗我部の戦国」を視聴しました
2024年9月25日(水)22:00~22:45 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 長宗我部の戦国」を視聴しました。
<NHKのあらすじ>
戦国大名・長宗我部元親を徹底調査!
四国制覇のカギは小牧・長久手の戦いにあった?
秀吉政権を生き抜くための秘策は土佐の名産品?
戦国を駆け抜けた長宗我部の軌跡に迫る。
■プロローグ
●スタジオで
長宗我部元親、なぜ一代で大躍進したのか?
群雄割拠で、8人の有力な豪族が覇権を争っていました。
安芸、香宗我部、吉良、本山、大平、津野、一条、長宗我部です。
どん底から土佐を制覇した欠かせない戦いが、小牧・長久手の戦いです。
中央のビッグゲーム
佐藤所長「長宗我部はあまり関係ないのでは?」
意外な関係が見えてきました。
■なぜ元親だったのか
●高知大学
・津野倫明さん(高知大学)
香宗我部に宛てた織田信雄の手紙で、信雄から元親陣営に送られていました。
「淡州、摂州」出陣要請です。
さらに、家康からも出陣要請の手紙が送られていました。
なぜ遠く離れた四国の元親にラブコールを送ったのでしょうか?
信雄と家康が秀吉の包囲網を張り巡らせるためでした。
北条氏政、姉小路頼綱、佐々成政、雑賀衆、根来衆なかでも重要視されたのが元親でした。
手紙から検証します。
●元親に対する期待
「長久手町史」
495分の37通、そこから長宗我部陣営の手紙は37分の18通が長宗我部陣営に宛てられたものでした。
元親に対する期待が大きかったのはなぜか?
なぜ元親に大きな期待がかけられたのか?
長久手の戦いの軍勢配置を見ればわかるといいます。
●軍勢の配置
秀吉側2万VS家康・信雄側1万4千
長宗我部が淡路や大坂方面に軍勢を派遣したら大坂ががら空きになります。
秀吉は大坂の防衛のために味方の軍勢を大坂に配置します。
秀吉は小牧・長久手の戦いに配置できなかったはずです。
参戦表明
信雄や家康にメリット十分ですが、元親にとってメリットはあったのでしょうか?
四国制覇の前に解決するテーマでした。
●四国制覇のため
愛媛・新居浜市
・藤田達生さん(三重大学)
金子城跡へ
金子本宅と同盟を結ぶことで伊予を勢力下に。
四国制覇の悩みのタネ
見下ろすと、瀬戸内海、島影も、中国地方、広島県、この地を治めていたのが毛利輝元です。
あとは伊予を押さえれば四国制覇の状況で毛利氏がネックでした。
毛利氏は河野氏と縁戚関係を結び、四国への進出を狙っていました。
元親はこれを食い止める秘策が参戦表明だったと考えています。
毛利氏は秀吉に対し不満を持っていました。
秀吉から出された条件は人質を出せなど、無理難題ばかりでした。
小牧・長久手の戦いで秀吉が負けたほうが都合が良かったのです。
毛利氏は長宗我部とは真正面でぶつからなようにしたのです。
元親はそこまで考えて参戦表明したのでした。
毛利が動きを止めたすきにある行動をとりました。
伊予の大名の河野氏に。
藤田さん「元親は河野氏とも和睦をする方向性を探ったのではないか」
「河野氏に対し、自分の側についたほうがいいんじゃないのという高等戦術を使ったと見ています」
●スタジオで
本能寺の変にも大きな影響を与えていた
佐藤所長「中央のビッグネームたちがみんな頼りにしている」
河合先生「本能寺の変四国説というのがあります」
「元親と信長の関係悪化が本能寺の変を招いたのではないかという説です」
本能寺の変四国説
信長は四国攻めを決定します。
仲介役だった光秀は責任を問われる可能性も。
この説を補強する史料が出てきました。
石谷光政宛斎藤利三書状(石谷家文書)
本能寺の変の半年ほど前、光秀の家臣から元親の家臣に送られた書状
「今後も光秀は元親のことをなおざりにすることはない」
河合先生「元親が天下を左右するキーマンだったという可能性はあるということです」
佐藤所長「四国制覇のあとはどうなったのでしょうか?」
秀吉が10万以上の兵を向けたため、元親の領地は土佐一国のみになってしまいました。
しかし、元親は意外にも秀吉に気に入られていたのです。
降伏から3ヶ月後、京都で面会し、能を見せられ歓待、約2億円を与えられました。
なぜ元親は秀吉に一目置かれる存在になったのか?
■名産品とは
高知本山町へ
・大西千之さん
・泉俊行さん
●白髪山
標高約1200メートルに到着、推定樹齢600年の大きな天然ヒノキの巨木です。
戦国時代も生き抜いたと言われる巨木です。
このヒノキが元親の強力な武器になったといいます。
元親が秀吉に献上したもの「南路志」
しかし、なぜヒノキで元親は秀吉に一目置かれるようになったのか?
・赤池慎吾さん(高知大学)
大坂城をはじめ巨大建造物の建設に着手。
しかし、畿内では巨大な良木はすでに伐採され枯渇していました。
そこで秀吉は全国から良質な木材を収集、これに答えたのが元親だったのです。
■土佐の木材はなぜ優れていたのか?
・市栄智明さん(高知大学)
一般のヒノキと白髪山のヒノキの年輪を調査します。
白髪山のヒノキは、ぎゅっと目が詰まっているのがわかります。
強度も強くて優良な木材だとわかります。
なぜ目が詰まっているのか?
秘密は土にあります。
何が違うのか調査します。
土壌の成分を抽出すると、マグネシウムの濃度が濃いことが判明しました。
非常にストレスが掛かりよくない状態です。
ニッケル濃度も高く、植物に悪い影響を与えてしまいます。
なぜ良質なヒノキが育つのか?
ヒノキは悪い環境でも育つ丈夫な木という特性がありました。
成長は非常にゆっくり、年輪幅が狭い良質な木材に育つのです。
秀吉に献上するために元親は準備します。
●元親の徹底管理
高知県立高知城歴史博物館
・横山和弘さん
分国法という元親が定めた法律です。
「長宗我部氏掟書」元親が定めた100か条の法律です。
「材木」という字、「竹木、杉の木、よろずの木」とあります。
山林資源に関する法律は100分の5、元親が力を入れていたことがわかります。
自分の領地の樹や竹であっても切ってはいけない、たけのこを折ると罰金10万円など。
山林資源を厳しく管理していたのです。
秀吉は後にこう評価したといいます。
「材木が取れる国、第一は土佐」と褒め称えています。
用意周到な名産品の徹底活用にあったのです。
●スタジオで
佐藤所長「これも元親のひとつの才能ですね」
河合先生「山国でお米の取れ高も少なく森林を保護したのです」
秀吉がなくなった翌年元親は61歳で亡くなります。
そのあとを継いだのは盛親です。
波乱の人生
「西軍についてしまい他に領地を与えられることになっていたのですが、家臣たちが一揆を起こし、領地は白紙、盛親は牢人になってしまいました」
10数年後、歴史の表舞台に登場します。
大坂の陣で活躍できた秘密を調査します。
■大坂の陣で活躍できた秘密
●大坂八尾市常光寺
・小谷利明さん
藤堂家の墓です。
大阪夏の陣で徳川軍の先鋒を努めたのが藤堂高虎。
これは藤堂仁右衛門の墓、一番強い軍隊を率いたトップが亡くなり、藤堂家としては大打撃です。
盛親の戦術とは?
●藤堂軍の動きから作戦を検証
古地図での大和川の非常に広い広場に出ました。
この広場で盛親は兵を構え、藤堂軍を待ち構えます。
盛親は地形のことをよく理解していて地形を活かしてさらなる作戦を展開します。
緩やかな坂、高低差を利用していました。
大和川の堤防でした。
当時は川幅が200メートルあり、高い堤防が築かれていました。
堤防に身を伏せていきなり現れて、襲いかかりました。
しかし、ある疑問が残ります。
寺子屋で教えていた盛親に、一介の牢人なぜ5000もの軍勢が集まったのでしょうか?
●牢人が集まった理由
・野本亮さん
「土佐国蠹簡集」
大阪の陣で盛親の軍に参加した人物の記述が残されていました。
「播磨もの」他国出身の牢人たち関ヶ原の戦いで敗れた西軍の武士たちでした。
藤田さん「万単位の牢人は大規模な就職戦争であったと位置づけることができるかもしれません」
なぜ盛親のもとで戦うことを選んだのか?
野本さん「名のある武将、土佐一国の大名、あの長宗我部元親の息子というネームバリューが魅力でした」
●スタジオで
江戸時代になっても元親の人気は衰えることがありませんでした。
三十三回忌に元家臣はこう記しています。
「かくのごときの大将にたれか死をかへり見んや」
「本当に元親の名誉はいまさら言うまでもない」
佐藤所長「なぜ家臣に慕われたのでしょうか」
河合先生「人の意見を聞く人だった物静かで穏やかな人でしたが、合戦になると槍を持ち立ち回った」
佐藤所長「ギャップ萌えだ」
ーーーおわりーーー
次回は「最上義光」10月9日(水)22時放送です。
■感想
徳川政権に変わり山内氏に取って代わられ、歴史から消された長宗我部の凄さがよくわかりました。
土佐だけでなく四国を制覇したというのは知りませんでした。
どうしても土佐一国というイメージに縛られていましたから。
長宗我部の武士たちは郷士にさせられ、低い身分とされたというのは聞いたことあります。
明治維新で活躍したといわれている坂本龍馬も郷士出身だったというのはどこかで見たことありますが、本当だったのかは、わかりません。
四国といえば、八十八ヶ所霊場巡りのお遍路さんとして有名です。
さらには、邪馬台国阿波王国説なんてのもあります。
弘法大師、忌部氏など謎多き人物も輩出していて興味が尽きません。
山だらけでちょっと経済的に繁栄とはいかず、取り残された感はありますが、島国ということで神秘的な側面が非常に面白い地域です。