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【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10回「根拠なき自信」

2022年3月13日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10回「根拠なき自信」を視聴しました。

<始まる前に>

富士川の戦いで平家軍を退けた源氏一族が、平家打倒をするまでの頼朝、義経、義仲それぞれの動静に注目です。
このころからやっと公式史料に登場しだすのが義経。
歌舞伎や浄瑠璃のイメージ先行型の義経をどう描くのかも見どころですね。

<NHKのあらすじ>

平家の追討軍を見事に退けた源頼朝(大泉洋)。
これを聞いた後白河法皇(西田敏行)はほくそ笑み、平家の総帥・清盛(松平健)は都を京へ戻すことを決断。
奥州の覇者・藤原秀衡(田中泯)は義経(菅田将暉)の文を一読し、静かに源平の様子をうかがう。
そんな中、鎌倉では八重(新垣結衣)が侍女として頼朝のそばで働き始めるが、北条義時(小栗旬)の気づかいに亀(江口のりこ)が疑念を抱くなどそれぞれの思惑が入り乱れていた……

■プロローグ

鎌倉仮御所で、義経は平泉での生活を語ります。
義経は、3000の兵を寄越すよう藤原秀衡に文を書きますが、平家にも兵を送ると約束するしたたかな藤原秀衡です。

---曲---

エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)

頼朝は平家軍を撃退した。
次なる策は、急がば回れ。
上洛を目前に、頼朝は鎌倉で新政権の強化に乗り出すが・・・。

■福原の法皇幽閉場所

後白河法皇と丹後局(鈴木京香)が平家の無様な敗退をほくそ笑んでいます。
清盛と宗盛が後白河法皇に面会し、力を貸そうと祈祷をさせることを話します。
法皇に文覚(市川猿之助)が呼び出され人を呪い殺せるか、と問われます。

■最後の時

大庭景親(國村隼)と山内首藤経俊(山口馬木也)が時政、三浦義澄(佐藤B作)、上総広常(佐藤浩市)の前に立たされます。
山内首藤経俊は放免されました。
頼朝の命を救ったことが我が身の仇となったと笑います。
「あのとき頼朝を殺しておけばという日が来るぞ」と予言して景親は広常に斬首されました。

■伊東祐親父子

これから、御所に行くという八重の気持ちを祐親に話します。
八重は鎌倉御所で侍女として働きます。

■鎌倉御所で

義時が八重を影で支える姿を、遠くで政子(小池栄子)と実衣(宮澤エマ)が影から覗いています。
三浦義村(山本耕史)も八重に惚れていて、八重が義時にもらった草餅を捨てさせます。
義村は力になると八重に近づきますがあっさり断られます。

■政子

御台所の作法のお稽古でした。
りくの兄・牧宗親(山崎一)が京からやってきました。
さらに、頼朝の弟・源範頼(迫田孝也)が登場です。
「得体のしれない人がどんどん増えていく」(実衣)

■義経

政子に甘えて膝枕する義経。
「で、あなたは?」(政子)
「足立遠元(大野泰広)です」
「あれが一番得体が知れない」(実衣)

■兄弟勢揃い

頼朝は、九郎のことを覚えているようですが、どうもうる覚えのようです。
「坂東のものは信じ切ることができない、兄弟こそ信じられる」(頼朝)
常陸の征伐にいかねばならないといいます。

■亀の策略

亀は、奥を預かるものとして八重の素性を知りたいと実衣に近づきます。
八重は亀に命じられて、頼朝の部屋に酒を届けに来ました。
亀がそこにいて、頼朝はばつが悪いような表情をするだけです。

■作法の練習

りくと牧宗親は、政子と実衣に作法を教えます。
阿野全成(新納慎也)が実衣といい仲です。

■10月27日常陸に出陣

佐竹氏が頼朝の挙兵に応じようとしない。
まずは使者を佐竹に送ろうとしますが、義経はまどろっこしいことはやめて戦をしようといいます。
「戦の経験もないのに自信だけはあるのだな、小僧」と広常は義経を小馬鹿にします。
経験もないのに自信もなかったら何もできないと義経は反論します。
「戦というものは一人でやるものではない」(上総広常)
頼朝は九郎の気持ちを抑えさせます。
佐竹義政(平田広明)が、上総広常と対峙します。
すると、突然、広常は、佐竹を斬り殺しました。
自分の言うことを聞かない上総広常に頼朝は怒り心頭です。
佐竹勢は西金砂山に立て籠もり、戦況は一進一退の膠着状態となった。(長澤まさみ)
ヒヨドリを捕まえる和田義盛(横田栄司)
九郎になにか策があるようです。
畠山が正しい、敵の目は常に下を向いている、だから上から攻めるのだ。
敵の矢が届く距離も予め想定しているのです。
義経の策が採用されたのです。
しかし、佐竹の敗退が知らされました。

■八重と義時

義時は、常陸のきのこを八重にお土産として渡していると、何か気配を感じた義時、誰かが庭に潜んでいるようです。
捕まえてみたら、頼朝でした。

どうして八重の居場所を知ったのか義時に聞かれ、亀から八重の居場所を聞いたと白状します。
義時が八重に惚れていると知り、八重と結婚しろと頼朝は言い出します。
そこへ「ツグミはさえずらない」
最後の弟・乙若/義円(成河)登場です。

----つづく----

次回は第11回「許されざる嘘」3月20日放送です。

■感想

タイトルの「根拠なき自信」は、九郎義経の自信過剰でした。
経験ない人物が自信なかったら何もできない、という義経のセリフは納得ですね。
特に義経の場合、アイデアだけは優れてたようですから、自信もあったんでしょう。
頼朝が参謀としては使える、と考えたのも不思議ではありません。
義経は平治元年(1159年)生まれなので、21歳です。
二十歳前後で、ちょうど生いきざかりで自信満々だというのもうなずけますね。
佐竹氏討伐の話しは、上総介広常が、血縁関係もあった佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺した、というのが通説のようです。
顔見知りの親戚でも簡単に殺してしまうという、殺らなければ自分が殺られるという、なんともすごい時代です。

■勝手に解説

頼朝は、関東において最高権力者・鎌倉殿に登りつめました。
そして一番最初に鎌倉殿・頼朝が行った大きな施策が、本領安堵と論功行賞でした。
御恩と奉公、権利と義務の関係でいうと、御恩=権利の保証です。
初代侍所別当に任ぜられた三浦義澄の甥・和田義盛は、鎌倉の屋敷への入御儀式に際し、居並ぶ御家人311人の前で帳簿にその名前を記録していきました。
和田義盛の侍所別当職は、建久三年(1192年)梶原景時に引き継がれます。
これは、侍所別当の地位を梶原景時に奪われたという説もあります。
御家人とは、平安時代は武士に仕える者を家人とか郎党とよんでおり、この頃から、主君として鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。
御家人は御恩を受ける代償として、鎌倉殿への忠節と奉公の義務を負うようになりました。
この頃の奉公は、頼朝軍に参加して戦い、鎌倉の館に出仕して警備を担うことでした。
このような御恩と奉公の主従関係が、鎌倉時代の根幹を形作っていきました。

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