見出し画像

【感想】NHK大河ドラマ『どうする家康』第18回「真・三方ヶ原合戦」

2023年5月14日(日)20時『どうする家康』第18回「真・三方ヶ原合戦」を視聴しました。

<始まる前に>
「真」がつくということは、前回は真実ではないということ?
期待を持たせるタイトルですね。

<NHKのあらすじ>
金荼美具足の遺体が信玄(阿部寛)のもとに届けられると、家康(松本潤)討ち死にの知らせは全国に広まった。
瀬名(有村架純)は動転しつつも、籠城戦への備えを家中に伝え、信長(岡田准一)は武田との決戦を覚悟する。
勝頼(眞栄田郷敦)たちは浜松城に攻め込むが、酒井忠次(大森南朋)の機転で徳川軍は難を逃れた。
浜松を後にして西に兵を進めた信玄だが、体の異変に襲われていた、
そんな中、徳川家臣団の前にある男が現れる。

---曲---
稲本響

■三河・岡崎城

武田軍が勝ちどきを上げる中、金荼美具足の遺体が運ばれていきました。
家康が討ち死にしたという情報に、瀬名は信康(寺嶋眞秀)に噂に流されないようしっかりするよう話しました。
家康の情報に信長は「桶狭間は二度と起きぬか」
明智光秀から足利義昭(古田新太)に、家康が敗退したという知らせが届きます。
明智光秀に徳川にはもう行くな、という話をします。
一方、金荼美具足と首が信玄の元に届きました。

■ナレーション(寺島しのぶ)
「と、ここで、時を半日ほど遡ります」

■半日前

名前を未だに覚えられない夏目広次(甲本雅裕)に留守を任せ、家康軍は三方ヶ原に出陣していきました。
なぜ名前を間違えるのかを問われた広次は影が薄いからとだけ応えました。
馬で馳せる金荼美具足の家康は、目前に信玄軍が待ち受けていることに動揺し、引くよう指示します。
しかし、信玄が攻撃を仕掛けると、戦が始まりました。
武田勝頼(眞栄田郷敦)の家康を逃がすなという指示で武田軍が侵攻します。
そして、徳川軍は総崩れ、家康は不明という知らせが入ります。
水野信元(寺島進)と佐久間信盛(立川談春)は信長の指図を仰ぐため、退却していきました。
そのころ、徳川軍は必死の防戦中、本多忠真(波岡一喜)は、本多忠勝(山田裕貴)に殿を守れといいながらここから去るように言いました。
酒を飲みながら本多忠真は、敵の防波堤となりながら武田軍に襲われ・・・。


(感想)
本多忠勝と叔父・忠真との別れを見事に感動的に描いていますね。

■浜松城・城門付近

多くの負傷者が運ばれ、酒井忠次(大森南朋)も戻ってきましたが、家康の行方はわかりません。
敵に襲われながら逃げ隠れる家康の元に、一人の武将が近づいてきました。
留守居役の夏目広次でした。
広次は家康に金荼美具足を脱ぐよう指示すると、広次は金荼美具足を身に着けています。

■夏目広次との思い出

家康は幼少の頃、屋敷の軒下に隠れ一人の武将が入ってきたことを思い出しました。
それは、夏目吉信(広次)でした。
昔、竹千代(川口和空)が戸田宗光(真水稔生)と一緒に居る所を襲われ人質に取られたとき、夏目吉信(広次)が守りきれなかったことを悔やんでいました。
夏目吉信(広次)は、それを報告すると、松平広忠(飯田基祐)に名を変えよ命じられました。
夏目吉信から広次に名前を変えたのは、竹千代を守れなかったからでした。
家康が名前を間違えていたのは、名前を変えていて元の名前を微かに覚えいていたのです。
夏目広次は金荼美具足を身に着け家康の身代わりになって敵陣に向かい討死にしました。


(感想)
なかなかおもしろいエピソードでした。
こういうところはドラマ作り手の真骨頂ですね。
夏目広次の話は、前半のクライマックスとして感動的でした。
私なんかは、家康摩り替え説の暗喩だと思ったりしますが。

■浜松城・城門付近

武田軍が襲ってきました。
石川数正(松重豊)と酒井忠次は門を開けるよう指示します。

■空城の計

門を開けて篝火を焚きしずまります。
信玄は「空城の計」という罠に見せかけ敵を惑わせる、諸葛孔明の策といいます。
見逃してやろうという信玄は、都に巣食う魔物、その仕事を息子に残しておくいい、西に向かいました。


(感想)
徳川の「空城の計」は創作だと言われています。
武田軍と戦う余裕はなかったんでしょう。

■家康帰還

泣きながら横たわる家康に数正と忠次は、武田軍が西に向かったと報告します。
「決して無駄にはせぬ。必ず立て直すぞ!家康は生きている、そう言いふらせ」と指示しました。

■上洛は?

「俺の言うことは一つ、ただ己のなすべきことをすべてなせ、天が信玄か信長かどちらを選ぶかじゃ」(信長)
藤吉郎は「天はもう選んでしまった」と言いました。
ところが、足利義昭は信玄が来ないと動揺しています。
武田勢は、向きを変え引き返していたのでした。

----つづく----

次回はどうする家康 第19回「お手付きしてどうする!」5月21日放送です。

■感想

信玄が上洛を目指していたのかどうかは、諸説あるようです。
信玄の行動の結果から見ると、目指していなかったんじゃないでしょうか。
目指すは信長への一撃であって、京都まで行くつもりは無かった。
そして、三方ヶ原の戦いで命からがら逃げ帰った姿を描かせたというのは本当かどうか。


Wikipediaより引用

家康が戒めのために描かせたものだと言われています。
しかみ像といわれる肖像画。徳川美術館にあります。
ところが、近年、しかみ像の由来を根底から覆す新説が登場。
・原史彦さん(名古屋城調査研究センター)
三方ヶ原に関する情報とまったく関係ない肖像なのです。
「御清御長持入記」には、東照宮尊影と経由のみで、戦いの記述はありません。
では、いつから戒めの絵と言われるようになったのでしょうか?
愛知県図書館へ
エピソードが広まったきっかけとなる記事が見つかりました。
祖先を語る座談会で徳川義親が語った言葉です。
三方ヶ原の戦いのご画像が残っています・・・子孫への戒めとして・・・」
・原史彦さん
うまくできたストーリーだということで、日本人の琴線にふれたんでしょう。
崇める対象として、所作は弥勒菩薩の半跏思惟像で、不動明王の顔に似ています。
要は武神の神としての家康を表現したものではないかと考えます。

歴史探偵「家康の顔」より引用


この記事が参加している募集

#テレビドラマ感想文

21,675件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?