見出し画像

【感想】NHK 歴史探偵「平将門 平安の反逆児」を視聴しました

2024年2月14日(水)22:00~22:45 歴史探偵「平将門 平安の反逆児」を視聴しました。

<始まる前に>
平将門の乱は『光る君へ』の時代より少し前に起こってますね。
平将門といえば、神田明神の怨霊の祟りが有名です。
そして、『風と雲と虹と』のテーマ音楽が好きです。

<NHKのあらすじ>
平安時代最大の反乱「平将門の乱」。
国に反旗を翻し、瞬く間に関東を支配した将門の強さの秘密が地下に眠っていた!?
巨大送風機の実験や最新研究から将門の実像に迫る。


■平将門 平安の反逆児

●スタジオで
佐藤所長「大きな反乱を起こした人物、将門の首塚、怨霊とか怖いイメージがあります」
実は、平将門は資料が少なく謎に包まれた人物です。
生年月日は不明
935年 所領などをめぐって一族内の争いが発生
938年 武蔵国の争いを調停
939年平将門の乱
「新皇」と1か月で名乗り関東8か国を支配下に置く
940年 平貞盛・藤原秀郷に討たれる

「将門記」に、相手80の兵に対し10人足らずで撃退、40人以上を討ち取ったとあります。

■将門 強さの秘密

●國王神社(坂東市)
・染谷洌さん
本殿のなかに強さに関する彫刻があります。
奥に格子戸があり、馬が見えます。
「彼は非常に馬を大事にして馬を使った合戦が得意でした」
なぜ将門は馬を使った戦いに長けていたのか?
染谷さん「国営の馬牧(牧場)が将門支配地に2つありました」
「延喜式」27箇所の馬の牧場の家半数13が関東に集中していました。
なぜこの地域が馬の飼育が盛んだったのでしょうか。

●土壌調査
長須へ
・高田裕介さん
深さ70cmの土を掘ると、3層に分かれた土壌です。
農研機構(つくば市)へ
土の特性を分析します。
作物の生育にとって重要なリン酸がどれだけ固定されるのかが数値化されます。
数値が多ければ多いほどリン酸が多くなります。
リン酸はアルミニウムと結合すると植物に吸収されず土に残ってしまいます。
土の中にアルミニウムが多いということを示すデータです。
データが大きいと作物を育てるのが難し土壌であることを示しています。
平安時代の土壌はなんと2倍以上、馬の飼育には不向きです。
「アルミニウムに強い植物が、ススキで、馬が好きな植物です」
馬の餌となるススキが豊富に育つ場所だったのです。
もう一つの理由が見えてきました。

●馬の飼育もう一つの理由
牧場があった場所は、沼に囲まれた半島状だったのです。
「周りが沼地だから、逃げることができない、すべての馬が出ていかないという利点がありました」
なぜ馬を使った戦いに長けていたのか?

●馬を使った戦いに長けていた理由
・川尻秋生さん
お父さんの平良将が鎮守府将軍で、東北地方を統治するために設けられた役職です。
蝦夷が得意としたのが馬の扱いでした。
このことが将門にとって馬を使った戦いのスキルを磨くことににつながりました。
「戦いを含む交流を蝦夷の人たちとして、武力を磨いていきました」

●さらなる理由
茨城県西武の菅生沼です。
・内山俊身さん
ヒントは菅生沼の形にあるといいます。
まるで川のような不思議な形で、かつて入り江の一部だったからです。
実は当時、関東平野の奥深くまで水が入り、網の目のように広がっていました。
土地の特性と将門はどんな関係があるのでしょうか?
交通路を地図に書き込むと見えてきます。
「常陸国府」から霞ヶ浦を入っていく、いくつもの水路の姿です。
このことが将門を経済面で支えたと言います。
「水陸両方使った交通路が機能し、大きな経済的な背景のひとつを作っていました」

●スタジオで
北側は東北、北海道につながります。
将門の拠点は、北から京への中継地点でした。
100年ほど後の時代、鷲の羽、砂金、絹、綿布などが運ばれていた可能性が高いのです。
佐藤所長「鷲の羽は何に使ったのですか?」
河合先生「矢羽根です。弓矢の先についているもので、黒貂(てん)の毛皮は貴族が大好きでした」
「貴重な品は今で言う高級ブティック店の品物が東北から入ってきました」
佐藤所長「どうして中間地点の将門の利益につながるのですか?」
その輸送に関わることで、何らかの取り分を得ていたようです。

さて、平将門の乱
どうして反乱を起こしたのか?

■平将門の乱

名古屋大学へ
・中塚武(古気候学)
木の年輪から酸素同位体という物質の比率を測定し、2600年間の本州の降水量を導き出しました。
将門の時代に大きな気候変動があったことがわかりました。
「10世紀は雨が少なく、約1000年ぶりの大干ばつが起きていました」
日本列島で経験したことがない干ばつの時代でした。
10世紀のグラフは年々降水量が減り続け、940年代あたりでピークを迎えます。
「多くの人々が大変な目にあった時代だった」
困窮する社会に追い打ちをかける出来事が、国の税制改革です。
朝廷は国司の権限を強化、自分のものにできる仕組みを導入、これを悪用する国司が現れます。
地方の豪族や農民との対立が度々起こっていました。
武蔵国でも国司と豪族が対立、一触即発の事態に。
その時立ち上がったのが、将門です。
自ら国司と交渉、和解させることに成功します。
その時関東の1豪族にすぎません、なぜ国司と豪族の間を取り持つことができたのでしょうか。
・鈴木哲雄さん(都留文科大学)
「将門記」移牒(ちょう)
「対等の役人同士がやりとりする文書の形式で、将門を国司と同じ存在だと認めて出していました」
将門は桓武平氏といわれる天皇の子孫の一族、さらに武勇に優れ関東の豪族たちからも一目置かれていました。
「地域の紛争の調停者という役割を果たし得たのです」

■天慶2年11月(939年)
武装した3千の兵を打ち破ったのが国への反乱とみなされたのです。
「将門にとっては悲劇でした」
「安定した枠組みを本当は求めていた、しかし反逆者とみなされてしまった」

●スタジオで
佐藤所長「止めようとしたのに反逆者」
もう一つ大きな反乱が藤原純友の乱です。
・伊予国の国司だった藤原純友
・海賊を取り締まる立場として国から派遣されたが逆に海賊を率いて中国・四国・九州を襲撃
・一時は大宰府まで占領
河合先生「純友にはご褒美がなく国への不満があったのではないでしょうか」
佐藤所長「過渡期でシステム変更ができなかった」
将門は、関東8カ国を制覇、2ヶ月後に討伐に来た兵に討ち取られてしまいました。
どうして負けてしまったのでしょうか?

■将門の敗因

名古屋市の大須観音へ
真福寺寶生院
「将門記」の敗れた箇所を読むと、気になる記述がありました。
その日暴風枝を鳴らし、地らいはつちくれを運ぶ」
すごい風が吹き、新皇の盾が倒れるほどでした。
不運に見舞われます。
風下に陣取ってしまい、劣勢になり、敵の矢で命を落としました。
「風が重要だと書かれています」

●風の影響の検証実験
筑西市流機エンジニアリングへ
弓矢が風の影響をどれほど受けるのか調査します。
・瀬尾和哉さん(工学院大学)
・近藤好和さん(研究家)
木を倒すことができるモンスターマシンです。
盾が倒れるほどの風の強さを調べます。
風速6mで盾が倒れました。
何個も盾を並べると強風に耐えられる可能性があり、風速10mにします。
実験スタート!
矢を放ち、戦いに与える影響を調べます。
木製の弓です。
・鈴木隆之さん
無風では、矢は的までしっかり届きました。
そしていよいよ風速10mでの実験です。
構えるだけでも大変、明らかに届きません。
「弓をコントロールすることが大変、的に当てることは難しいです」

●もう一つの理由
将門が劣勢に陥った理由がもう一つあります。
「将門記」なんと合戦を前に兵を国元に返してしまいます。
敵が4千に対し味方は1千です。
旧暦の2月1日(現在の3月上旬)は、農作業の始まりという重要な時期にあたります。
「自分のもとに留め置けないということで解散します」
将門は、農繁期の春から夏にかけて戦を行っていないことがわかります

●スタジオで
佐藤所長「将門の人間性ある対応、判断だった気がします」
将門はある遺産を残したのです。
将門を討ち取る・平貞盛→平清盛
将門の謀反を報告・源経基→源頼朝
佐藤所長「乱の鎮圧に功績の会った一族」
河合先生「間接的に武士の世の中を作りました」
佐藤所長「将門の印象が変わりました」

ーーーおわりーーー

次回は「江戸マジックショー」2月21日(水)22時放送です。

■感想

「ミイラ取りがミイラになる」的な運命だったのでしょうか。
平将門も藤原純友も、反乱を鎮めるために武力を使ったのに、逆に武力で鎮圧されています。
京都にいる貴族や官僚にとっては、武力というものが汚らわしいものとして一括りにされて軽んじられていたのでしょう。
なんせ、怨霊とか祟りに恐れおののき、悪事には目をつむる人たちですから。
一般民にとっては苦しい年貢の取り立てを和らげてくれる英雄なので、社会で重要視されてくるのは当然なのかもしれないですね。
何もしてくれないで見て見ぬふりをする偉い人たちは信用を落とし、為すべきことを実行する人が価値を認められるのは良いことです。
怨霊として恐れられたということは、無実の罪で亡くなった、悪い人ではないと皆が認めていたということですので、今でも称えられるのでしょう。
日本の怨霊、祟りという深層心理は、日本人の重要な精神性を見ているような気がします。
古臭いと考えるのではなく、無くしてはいけない概念なのかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?