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【感想】NHK 歴史探偵「戦略家 今川義元」を視聴しました

2023年1月4日(水)22:00~22:44、NHK 歴史探偵「戦略家 今川義元」を視聴しました。

<始まる前に>
前回のコラボスペシャルは別枠として考えると、実質、新年最初の歴史探偵です。
今川義元といえば桶狭間で討ち取られるダークで愚鈍なイメージが強いですね。

<NHKのあらすじ>
大河ドラマで注目の今川義元。
実は戦国屈指の戦略家だった姿が見えてきた!
将軍家、歌人を駆使した巧みな策略、そして桶狭間の戦いに秘めた義元の知られざる野望に迫る。

■希代の戦略家 今川義元

今川氏真役の溝端淳平さんがゲスト。
今川義元は、大河ドラマでは徳川家康に大きな影響を与える人物として描かれます。

■スタジオで
今川氏真役の溝端淳平さん登場。
溝端さん「野村萬斎さん演じる今川義元の息子です」
佐藤所長「家康に影響を与えたといわれる優れた武将というイメージはないです」
『朝倉宗滴話記』では、日本の大名で手本とすべき人物の最初に今川義元が出ています。
義元の人生、3つの大ピンチを通して実像に迫ります。

■大ピンチ①御曹司はつらいよ

義元ゆかりの場所、京都・霊源院へ
・雲林院宗碩さん
『碧巖禄』約900年前の中国で編さんされた仏教書です。
義元は武士ではなく、僧侶の道を進んでいたのです。
跡目争いで災いになるということで、五男の義元は、学問の中で生きていくのが本来でした
ところが、数年で駿河に呼び戻されます。
富士市へ
・小和田哲男さん(静岡大学)
善得寺公園:京都から戻ってここで修行します。
呼び戻されたこの寺に入るというのには、ある狙いがありました。
小高い丘に登ると、城のような作りになっていることがわかります。
甲斐と駿河を結ぶ最前線防衛施設、国を守る任務を課されたのです。
小和田さん「人材難、今川家中がぐちゃぐちゃ状態になっていたことの証でした」
さらなる事件が起こります。
氏輝が24歳で急死したのです。後継ぎに選ばれたのが義元でした。
この決定に異議を唱えたのが、兄の恵探です。兄弟の骨肉の闘いが始まりました。
・加藤理文さん(日本城郭協会)
恵探軍の拠点のひとつ、久能山へ
断崖絶壁と海に囲まれた駿河国で一番の要害が久能山です。
さらに、井戸があり、ここに籠もったら水に困りませんので、義元絶体絶命のピンチです。
霊源院へ
7代将軍・義勝公が書いた達磨の水墨画、つまり足利将軍家と深いつながりがある文化サロンでした。
義元は足利将軍家とのつながりを活かし、将軍に家督相続を認めてもらいました。
真の狙いは、北条の支援を得て味方につければ有利になると考えました。
そして、義元が当主になりました。
小和田さん「やり手の武将だったと見ていいと思います」

■スタジオで
河合先生「京都から関東の北条まで全国的に視野を広げた戦略家でした」
500年前の本物の漢詩がスタジオに登場。
「管中窺天」視野や見識が極端に狭い、そうならないようにという意味です。
河合先生「最強といえるのです」

■大ピンチ➁まわりは強敵だらけ

武田、北条という有力な戦国大名とどう渡り合ったのか?
静岡市へ
『静岡古地図』
碁盤の目、京を模したまちづくりは、建物にもありました。
「四足御門」跡
小和田さん「小京都、リトル京都にしようとしたと言われています」
浄土宗・報土寺へ
歌碑の作者は、冷泉為和、歌の名人で、義元の招きで駿府に住みました。
町づくりは京の文化人を招くためでもありました。
そこに、義元の知られざる戦略がありました。
・前田利久さん(清水国際高等学校)
『為知詠草』誰と歌会を行ったのか注目し、年代ごとに数えます。
赤は武田、青は今川
前田さん「今川家の任務を帯びて、政治的な目的で、武田の内情を探るために送られたと見られます」
天文11年の歌会では11回武田の歌会に参加しており、極端に多いです。
「前年の天文10年、武田信玄が父を追い出し当主についたクーデターが影響していると思われます」
「武田がどれだけのしっかりした政権なのかを見分けなければいけない、値踏みをしたのでは」
文化を使って敵を探り、ひとつの同盟を作り上げます。
武田、今川、北条の三国同盟です。
小和田さん「抜群の完成度の高い同盟でした」

■スタジオで
佐藤所長「重要な仕事を任せたんですか?」
河合先生「為知は天才的なVIPで、信玄は和歌が好きで為知を送ったのです」
『駿州義元公路地庭』
庭は、富士川、三保の松原をモデルにしており、富士山は借景、駿河の名所をひと目で楽しめる仕掛けでした。
河合先生「迎賓館的役目があったとみられます」

■大ピンチ➂桶狭間の戦い

きっかけは今川義元が尾張に出陣したことでした。
目的は大高城の救出にあり、今川の城、前線基地でした。
信長の築いた4つの砦に囲まれ落城のピンチ
小和田さん「総力戦、かなり無理した動員でした」
信長が築いた丸根砦を調査しました。
・深谷篤さん
頂上は約30m四方と狭いです。信長の砦とは思えない小さなものでした。
500人くらい兵隊がいたと思われます。
軍勢は全部で2千人ほど、一方今川は2万5千、大高城の救出には兵が多すぎます。
・服部英雄さん(名古屋城調査研究センター)
大高城においた人物に注目しました。
『落照露言抄』義元が鵜殿氏に大高城を守らせたとあります。
鵜殿氏縁の地、三重県紀宝町へ
「諸手船」両手を合わせたような流線型の船です。
熊野水軍のいくさ船の形態を残すものです。
鵜殿氏縁の地は熊野水軍と関わりの深い場所だったのです。
館の跡、この地では最大級の規模です。
「海の作戦を立てる上で、高度の軍事力を持っていた鵜殿氏を大高城においたと考えられるのです」
現在の大高城は海から遠くはなれていますが、当時、海の近くでした。
大高城を拠点に一気に北上、尾張を徹底的に叩こうという作戦が想定できます。
さらに、出陣した5月に意味があることがわかりました。
・豊田将也さん(豊橋技術科学大学)
伊勢湾の風の分布に注目しました。
5月は今の暦で6月、南から風が吹いています。
熱田に船を動かす時追い風になり影響を与えたといえます。
北風の吹く12月と比較すると、約4倍になりました。
緻密に計算して進軍した可能性があることがわかります。
しかし、もう一つの自然現象が災いをもたらします。
梅雨の桶狭間を大雨が襲います。
今川義元、桶狭間の戦いで討死、享年42

■スタジオで
佐藤所長「今川義元の視点で見ると、全然違うのが見えてきますね」
河合先生「実行に移されたら歴史が変わったかもしれません」
佐藤所長「人とは違う視点で使うのは傑出した人物だと思いました」
溝端さん「父のことを尊敬できるようになりました」
河合先生「氏真さんの代で滅んでしまいましたが、高家という旗本として江戸幕府に続いています」
実は今川義元、苦手なものがありました。完全に下戸でした。

ーーーおわりーーー

次回は「新発見!歴史ニュース」1月11日(水)放送です。

■感想

番組であったように義元は、通説でも戦略家で高貴な人だったことは確かなようですが、やはり戦で負けたことには違いなく、結果的に愚かだったんでしょう。
上には上がいる下剋上の戦国時代に生まれていなければ、また違った人生だったんでしょう。
そして、今川義元に織田を討つ意思があったのかどうかも気になります。
織田を警戒していなかったわけで、不意打ちのような格好で討たれているところを見ると、大高城狙いだったというのも納得感があります。
そこをゲリラのように一点突破で倒した信長の勇気と知略が、強きを挫く戦国時代的で世に受けたんでしょう。
それと、義元が下戸だったというエピソードはウケました。
親近感が湧いてきました。


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