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【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第9回「決戦前夜」

2022年3月6日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第9回「決戦前夜」を視聴しました。

<始まる前に>

新たな出演者が発表されました。
九条兼実(田中直樹)、静御前(石橋静河)、里(三浦透子)、公暁(寛一郎)、運慶(相島一之)
九条兼実や運慶が登場するのは楽しみです。

<NHKのあらすじ>

ついに鎌倉入りを果たした源頼朝(大泉洋)の一党。
敵対した平家方を捕らえるため、頼朝は競わせるように和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)を派遣。
これを知った北条義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)は、祖父・伊東祐親(浅野和之)と八重(新垣結衣)を救うため急ぎ伊東へと向かう。
そのころ、都を出た平家の追討軍が東海道を進軍。
甲斐では、出陣を約束した武田信義(八嶋智人)が義時の父・時政(坂東彌十郎)に……

■プロローグ

「伊東祐親を召し捕ってまいれ」(頼朝)
八重を救いに駆ける義時。

---曲---

エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)

大軍となって鎌倉に入った頼朝。
反乱鎮圧に失敗した伊東、大庭はなす術もなかった。
都からは追討軍が迫って来ている。

■伊東の館

義時は伊東祐親に援軍は来ないと話します。
善児(梶原善)は次郎を殺害、伊東祐親は義時に刃を向けますが、八重が登場、祐親を助けます。
伊東の館に和田義盛と畠山重忠が到着、そこに三浦義村が立ちはだかります。
八重は頼朝の所に戻る気はない、と伊東祐親に話します。

■頼朝

義時と政子は頼朝に伊東祐親の助命を懇願します。
頼朝は姑・伊東祐親と久しぶりの対面、良き孫たちに恵まれたと、伊東祐親の身柄は三浦に預けられました。
八重は、頼朝を支えるため侍女として置いてほしいと義時に懇願します。
政子は厚かましいにもほどがあると、大反対です。
美依は、近くにおいておいたほうが安心とアドバイスします。
八重は厨の仕事に従事、これよりはそれぞれの立場で頼朝を支えていくことになりました。

■10月13日平家出陣

治承四年10月13日(1180年)平維盛の追討軍が東海道を進む。
頼朝は、甲斐の武田が来ないことを案じます。
時政によると、武田軍はそのまま駿河の黄瀬川に行ったそうです。
頼朝は、自分が出向くとは逆ではないかと、頼りない時政を叱りつけます。

■時政帰る

宗時の観音仏を拝みます。
時政は頼朝とは石橋山の戦いの遺恨が残っていると。

■10月16日源氏出陣

頼朝軍は、武田信義の陣に合流するため出陣します。
仁田忠常(高岸宏行)は、九郎というものが訪ねてきていると全成に話しますが全成は偽物だと追い払います。

■10月20日

平維盛軍は、10月20日冨士川西岸に到着

■武田信義と源頼朝が対面

明後日出陣として、話し合うことを両者約束。
総大将は、上総広常(佐藤浩市)自ら立つと進んで言います。
坂東武者たちは自分たちが陣立て会議に参加できないことを不満に思っています。

■その日の深夜

頼朝のもとに、武田信義軍が冨士川に向かったと知らせが入ります。
武田に出し抜かれた頼朝は夜明けを待つことになりました。
武田信義は夜討ちをかけると決定します。
駿河の目代・橘遠茂の首をみせ、夜討ちが無謀でないことを主張します。

■水鳥の羽音

時政は三浦義澄(佐藤B作)に坂東武者の命がかかっていると叱咤激励されます。
二人の掛け合いから馬が鳴き騒ぎます。
「あたりで休んでいた水鳥たち数万羽のは音が夜空に響き渡る」(長澤まさみ)
維盛軍は、敵が来襲したと思い、あっという間に総崩れとなりました。
頼朝は、武田信義に先を越されまいと平家を追討すると宣言します。
土肥実平(阿南健治)、三浦義澄らは飢饉による兵糧不足で困っているため、平家を倒すのは二の次だとの意見で一致しています。
上総介広常も流れが変わったと総大将を諦めます。
北関東の佐竹が広常不在のスキを突こうと動き出したこともありました。
頼朝はすぐにでも追討したいのですが、坂東武者の思いも考えてほしいと時政は必死に説得します。
頼朝も鎌倉へ帰ることに決めました。

■頼朝と義経ご対面

「奥州より馳せ参じました。今日この日を待ち焦がれておりました」泣きながら話す義経。
義経本人である証はないかと問われ、藤原秀衡からの書状をみせます。
「兄上のためにこの命捧げます」
二人は抱き合います。

----つづく----

次回は第10回「根拠なき自信」3月13日放送です。

■感想

富士川の戦いでの有名な水鳥の羽音におびえて慌てて撤退したという逸話、楽しみにしてたので、なるほどというか、すこし意外な展開でした。
三浦義澄と時政のやり取りが原因か!
八重については、有名女優を持ってきた段階で引っ張る予感はありましたがここまで引っ張るとは。
そして、時政の頼朝に対する心の動きが、微妙に変化していき、今後の展開につながるものを感じました。

■勝手に解説

頼朝追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛らによる追討軍が福原を出発したのは9月22日、総大将の維盛と参謀長の藤原忠清が日が悪いから吉日を選ぶ選ばぬで内輪もめの喧嘩があり、京を発したのは9月29日になってしまいました。

同じ源氏一族の甲斐源氏・武田信義、安田義定ら挙兵して甲斐国を制圧し、8月25日には、石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟・俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて戦いました。
10月14日には、富士山の麓で維盛軍の到着を待ちかねて出陣した目代・橘遠茂の3000騎を撃破しました。

10月18日、大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとしますが、行く手を阻まれ、相模国で軍を解散し逃亡、伊東祐親・祐清勢も船で維盛軍に合流しようとしますが捕らえられました。

鴨長明「方丈記」によると、治承四年(1180年)から翌年にかけて、大凶作、大飢饉が起きていました。養和の大飢饉といわれるものです。
平家軍は脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう状態でした。

平家軍は富士川からの撤退を決定、その夜、富士沼(浮島ヶ原)に集まっていた水鳥が何かに反応し、大群が一斉にパッと飛び立ちました。
『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とあります。
東征軍は大混乱に陥り、我先にと遁走していきました。
いわゆる「水鳥の羽音」の逸話です。
このように富士川の戦いでの勝因は、甲斐源氏・武田信義軍の戦力と士気の高さであり、その反対に平家軍は、維盛や藤原忠清といった指揮官トップの統率能力の低さによる進軍の遅れや士気の低下でした。
さらに、西日本の飢饉による兵糧不足も追い打ちをかけました。
結果的に、富士川の戦いで頼朝軍は戦わずに勝ったのでした。
ここでも頼朝軍の運の良さを物語っていました。

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