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卑弥呼と日食の関係を科学で解明できるのか?


卑弥呼の邪馬台国はどこにあったのか
議論を巻き起こしているのが、少ない情報のために邪馬台国の場所が特定できないことです。
まず、帯方郡から伊都国までの記述はほぼ定説化しているところです。
畿内説、九州説はもちろん、四国説、関東説、沖縄説、インドネシア説なんてのもあるそうです。
そして、存在しなかった説もあります。
80種類ほど説があるとか、まあ、どこでもアリっていうことですかね。
永遠のテーマと思える邪馬台国論争ですが、科学で場所を特定しようとする試みがあります。
それは、場所を日食で特定しようとするものです。
国立天文台「247 年 3 月 24 日の日食について」という2012年の論文です。
その前に、アマテラスの天岩戸隠れ神話のおさらいです。

天岩戸神話の岩戸隠れ

スサノオは誓約で身の潔白を証明した後、高天原で暴れ回り、田の畔を壊し溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らすなどの乱暴をおこないます。
アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていると、スサノオが機屋の屋根に穴を開け、皮を剥いだ血まみれの馬を落とし入れます。
これに驚いた天服織女は、梭(ひ)が陰部に刺さって亡くなってしまいます。
この事件に激怒したアマテラスは、天岩戸に引きこもってしまい、その結果、高天原と葦原中国は暗闇に包まれ、多くの災いが発生しました。
アマテラスは太陽神とされているので、世の中は真っ暗闇になってしまいますが、八百万の神々が協力してあの手この手を使ってアマテラスの気を惹こうとします。
そこで、アメノウズメは天岩戸の前で桶を逆さにして踏み鳴らし、神がかりして胸を露わにし、裳の紐を陰部まで下げて踊り出しました。
その様子に八百万の神々が大笑いし、アマテラスはその声を聞いて不思議に思い、天岩戸の扉を少し開けて「自分が岩戸に隠れているのに、なぜ皆が笑っているのか」と尋ねました。
アメノウズメは「あなたよりも尊い神が現れたので、皆が喜んでいるのです」と答えました。
すると、アメノコヤネとフトダマがアマテラスに鏡を差し出し、鏡に映った自分の姿を新たな神と勘違いしたアマテラスは、もっとよく見ようと岩戸をさらに開けました。
その瞬間、隠れていた天手力男神がアマテラスの手を取って岩戸の外へ引き出し、フトダマがすぐに注連縄を入口に張り、「これ以上中に入らないでください」と言いました。
こうしてアマテラスが岩戸の外に出ると、世界に光が戻り、高天原と葦原中国も明るくなりました。
というのが天岩戸隠れの神話です。

天岩戸隠れ:Wikipediaより引用

卑弥呼・アマテラス同一人物説

そして、アマテラスが卑弥呼であるというのは私も支持する説でもあります。
そもそも日本書紀編纂当時、アマテラスを皇祖神としたのは、祖神にふさわしい「大女王」だったからだとみています。そして、中国側の魏でもその評判が広がっていて、女王卑弥呼を魏志倭人伝で紹介したのだと推測します 巫女の力で倭国大乱を治めて、平和な時代をもたらした、という名声です。
そして、日本書紀編纂時に、アマテラスが持統天皇の正統性を主張するための論拠として編集するように指示が出たものではないかと推定します。

日食と卑弥呼の最期

この神話が、卑弥呼の死没を象徴しているとする解釈があります。
この説によれば、卑弥呼が亡くなった際に皆既日食が起こったのではないかと考えられています。
また、卑弥呼の後継者である台与(とよ)が立てられたことを、天の岩戸が開かれた出来事として捉えることができるのです。
この解釈は、単なる思いつきではありません。
実際に調査すると、卑弥呼の時代には247年3月24日と248年9月5日に皆既日食が発生していたことがわかります。
この事実から、卑弥呼の死後に内乱が起こり、翌年に台与が立てられて平和が回復したことが、当時の人々にとって皆既日食という恐ろしい天文現象と結びついていたと考えられます。
したがって、これらの日食がどこで観測されたかが判明すれば、神話で「高天原」とされている邪馬台国の位置を特定できる可能性があると考えられ、天文学者たちは当時の日食を解析しているのです。
日食ってそんなに重大な現象なのか?
現代人の感覚からみると、そう思ってしまいます。
彗星、月食、星座などと同じような天体観測ショーのイメージしかありません。
ところが古代では、とても恐ろしい現象だったのです。

日食がこの世の終わりをもたらす

皆既日食とは、月の影が太陽を右下から左上にかけて徐々に覆い隠し、最終的に太陽が完全に暗くなる現象です。
この現象全体は約2時間ほど続きますが、太陽が完全に隠れる直前に見られるダイヤモンドリングと呼ばれる輝きが消え、再び反対側に同じ輝きが現れるまでの完全な暗闇の時間は、ほんの数分間です。
それでも昼間が突然暗闇になるため、古代の人々にとっては、まるで世界の終わりが来たかのような恐怖を感じたことでしょう。
太陽が欠けるという、人びとには衝撃的な天文現象は、天変地異をもたらす凶兆として、あるいは大王の治世が徳を失い世が乱れることへの神様の警鐘として、恐れられました。
近代天文学が確立する前、多くの文明では、日食や月食を神話で説明していました。
これらの神話の多くは、日食や月食は神秘的な力同士の対立や争いによって引き起こされるとされていました。
例えば、ヒンドゥー教の神話では、月の昇交点と降交点がそれぞれラーフとケートゥという二人の魔神として擬人化され、この二神の働きが日食や月食を引き起こすと考えられていたのです。
「日本書紀」推古天皇36年の条に日本で最初に日食を取り上げた記事が載ります。
特定された日食はこの推古天皇36年(628年)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため、地球の自転速度低下により特定できないとされています。
中国の文献を参考にして247年の日食を解析したのが天文学者です。

日食と卑弥呼に関する主張の変遷

論文に基づいて独自作成

天文学の斎藤国治博士は、247年3月24日に日食が起こった時刻は、北部九州では太陽は日没までにほぼ皆既日食の状態となり、そのまま日が没したと考えられるとしています。
しかし、大和では、その時刻にはまだ太陽は6割くらいが欠けた状態のまま、日没となります。
つまり、大和より北部九州でより強く日食の恐怖を体験したという主張をしたのです。
そして、歴史作家の井沢元彦さんが、248年の日食は天岩戸隠れの皆既日食だと主張します。
さらに、158年に起きた日食は、日本中が乱れた「倭国大乱」発生の原因だというのです。

2010年国立天文台の主張

『天の磐戸』日食候補について

斎藤博士に対する反論が出されました。
2010年、国立天文台のグループが247年の日食に関する解析結果を公表しました。
国立天文台の研究者は、ΔTについてくわしく研究し、247年3月24日の日食のときのΔTの値は約7300秒と考えられるとしました。
この場合、九州では日没後となるので皆既日食は見られず、したがって邪馬台国の場所を特定する決め手とはなりえない、と指摘しました。
(国立天文台報第13巻「『天の磐戸』日食候補について」)
斎藤博士の学説では、地球の自転周期の「ずれ」が考慮されておらず、これを考慮すると、九州で皆既日食が起こるのは日没後となり、地平線に隠れて見えないはずだというのです。
248年の日食が観測されるのは能登半島付近に限られます。
じつは地球の自転は、規則正しく回転運動しているわけではなく、微妙に揺れ動いているために動きに時間のムラが生じています。
そのため自転する時間にもずれがあり、これにより日没の時間を特定することも、そう簡単ではないようなのです。
時間のずれ(ΔT)=計算値ー実測値 時間のずれであるΔTは、過去に遡るほど大きくなります。
これで日食と卑弥呼の研究に終止符が打たれるだろうとだれもが考えました
ところが、その2年後の2012年に、谷川博士と相馬博士はこの結論を修正しています。
上田暁俊氏、安本美典氏を加えた4名による論文(国立天文台報第14巻「247年3月24日の日食について」)には、およそこのように述べられています。

2012年「247年3月24日の日食について」

247年3月24日の日食について

国立天文台のメンバーは、後漢から晋までの日食情報を用いて、西暦247年3月24日に観測された皆既日食の軌跡を推定します。
地球の自転するスピードは、「潮汐摩擦」(ちょうせきまさつ)といわれる潮の満ち引きによって起こる海水と海底との摩擦などが要因となって徐々に遅くなるので、古代の日食を解析するには、自転速度の遅れ(ΔT)を考慮する必要があると説明しています。
西暦 247 年前後の地球時計の遅れ∆T の値を見積もります。
247年3月24日の日食に関する記述が三國志と晋書にあることを見つけました
その記述によると、日食は洛陽において皆既でなく、それに近い深食であったとします。
このことから∆T > 7750 秒を得ました。
以前の論文では、西暦 247 年前後に∆T= 8000 秒は大きすぎて本当らしくないと述べています。
そして、以前の論文の結論は訂正すべきかもしれないというのが今回の結果です。
それによると、247年3月24日の日食は北九州でも皆既日食に近い深食であるとします。
とくに北九州市や北九州沿岸の島では皆既であった可能性が出てきました
∆T が単調に減少していない可能性があるのです。
これは、地球の南北極での氷の消長による地球の慣性能率変動と∆T 変動の関係について簡単な理論的考察を行った結果です。
論文の筆者らは、天岩戸神話は皆既日食体験が伝承として残ったものと考えています。
その結果、248年の日食はともかく、井沢さんの主張とは異なる247年3月24日の皆既日食であれば、北部九州や大和で目撃された可能性もある、という見解になりました。
若干、北部九州説の主張に近い結果ありきで導き出されたという印象ですが、データの精度を上げれば南部九州説もありうるのでしょうか。
日食研究によって、邪馬台国畿内説の立場が弱くなったというのは間違いないでしょう。
そもそも、天岩戸隠れが日食だったのかという議論も確定したわけではなく、推測にすぎません。
日食が騒乱を招いた原因だというのも推測です。
とはいえ、神話をリアルな場所に引っ張り出すことは重要なことだと思いました。

論文に基づいて独自作成


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