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【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第29回「ままならぬ玉」

2022年7月31日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第29回「ままならぬ玉」を視聴しました。

<始まる前に>
梶原景時がいなくなり、次のターゲットはだれでしょうか?
比企能員かそれとも和田義盛か?
いずれにしても、北条を優位にさせていきます。

<NHKのあらすじ>

御家人たちのバランスが崩れ始めた鎌倉。
義時(小栗旬)は北条と比企との争いの激化を懸念し、頼時(坂口健太郎)と比奈(堀田真由)を前に決意を新たにする。
そんな中、つつじ(北香那)が源頼家(金子大地)の次男・善哉を出産。三浦義村(山本耕史)が乳母夫となるが、
比企能員(佐藤二朗)は長男・一幡こそが嫡男であるとけん制。
一方、北条時政(坂東彌十郎)はりく(宮沢りえ)から政子(小池栄子)の次男・千幡を頼家の跡継ぎにと……

■プロローグ

梶原景時の首が鎌倉に届き、供養する御家人たち。
善児(梶原善)が義時に呼ばれ、梶原景時から袋を渡され、二代目のとう(山本千尋)が見事な剣術の腕前を披露します。
その袋は、兄・宗時(片岡愛之助)が善児に暗殺された時に奪った袋でした。

---曲---
エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)

鎌倉を支えてきた宿老の一角が崩れた。
バランスを失い、大きく振れる権力の振り子。
それを止める者は、誰だ。

■三浦義澄の最期

侍所別当の座を誰にするのか、話し合いが始まりました。
その頃、三浦義澄(佐藤B作)は死の床にいました。
時政は盟友・義澄の死を大いに悲しみました。
もう一人、安達盛長(野添義弘)も・・・頼朝に長く仕えた生涯でした。

■比企能員

比企能員は頼家に、「比企が支えます。鎌倉殿のために」
頼家は支えなくてもいいといいますが、比企は引き下がりません。

■北条時政が国守就任

国守になるのは御家人ではこれが初めてのこと。
政子(小池栄子)は、比企のことは忘れてくださいといいます。
頼家は、所領の評定は直接、頼家が処断すると命じ、所領の境界を強制的に半分にします。
つつじ(北香那)が男子・善哉を産みました。
比企は、次の跡継ぎは一幡様だと義時に念を押します。

■りくの魂胆

このままでは比企の思うがまま、ちょっと乱暴な手を使ってでも千幡を後継にしようと画策します。
全成が時政とりく(宮沢りえ)に呼ばれ、鎌倉殿を呪詛をかけ病に臥せってもらうという策略を語ります。
後を継ぐのは千幡だと時政は全成に話します。
この年、坂東は台風に見舞われ多くの被害が出ている(長澤まさみ)

■蹴鞠に興ずる頼家

時連(瀬戸康史)は蹴鞠で頼家に気に入られていると自慢げです。
三浦義村(山本耕史)の娘・初(福地桃子)は頼時について面白くないと不満げです。
三浦義村が八重に預けたのが初でした。
「比企のやつらにいつまででかい顔をさせておくつもりだ」(義村)

■せつの思い

頼家はつつじ(北香那)に生まれた男子の所に入り浸りだと、せつが比奈に話しています。
比奈(堀田真由)は政子にせつを引き合わせます。
「信じていないけど、信じたいのです」(せつ)

■頼時と領民

米を借りたという証文があるから、約束したからには守らねばならぬ、と頼時は領民に言います。
頼時は、証文を破り捨て、一人に付き米一斗を与えることを約束しました。

■北条泰時

これを機に名を改め、北条泰時とする。
しかし、頼時の「頼」は頼朝様からもらった「頼」でもあると納得していません。

■全成

頼家の人形を彫り呪詛を唱え、実衣にも見せません。
実衣(宮澤エマ)は、義時に全成が人形を作っていると打ち明けます。
頼時は時政とりくに全成が怪しい人形をつくり呪詛をかけているのではないかと疑います。
りくは、私達とは関係ないと否定します。
西国から流れてきた僧侶が捕えられ、頼家の所に連れてこられました。
切り捨てろという頼家に、時連はそんなことをすれば災いがおきると戒めると、考えを改め、僧を追い出せと命じました。
せつがそこに現れると、比企が煩わしいのだ、どけと詰ります。
一幡と私をそばにおいてほしいだけで、比企は関係ない、鎌倉殿を支えたいと訴えかけます。

■建仁二年(1202年)7月、征夷大将軍に任官

頼家が義時と蹴鞠をしながら話をしています。
影で全成が呪詛をかけています。
そこに蹴鞠の先生・平知康(矢柴俊博)が現れます。
一幡を跡継ぎにする、せつとなら鎌倉をまとめていけるようなきがすると頼家は決意します。
お役御免になった平知康に玉を投げると、平知康が井戸に落ちてしまいました。
頼家が縄を使って引き上げようとしますが、今度は頼家が落ちてしまいました。
全成が間一髪、頼家を引き上げました。
全成は時政に頼まれ、頼家を呪詛していたことを実衣に打ち明けました。
しかし、家の外にあった一体の人形を掴む手が・・・

----つづく----

次回は第30回「全成の確率」8月7日放送です。

■感想
最近のドラマは、戦闘による討ち死にシーンを見せたがりませんね。
三浦義澄の最期はしっかり描くのに、梶原景時の最期は首だけでした。
梶原景時の最期を見たかったのは私だけ??
最近のテレビが面白くないのも、臭いものには蓋、リアル感のある生命の終幕とか、本当の人間の表と影の部分を描かれなくなった風潮もあるのではないかと思います。
最近の大河ドラマは特に戦争シーンを省略することが多いような気が。。
なにかに配慮しているのなら、止めていただきたい。
さて、次回は全成の粛清ですか。
陰謀はまだまだ続きそうですね。

■勝手に解説

梶原景時の変につながる最初の騒動が発生します。
鎌倉殿の13人による合議制成立の半年後、正治元年(1199年)の秋10月25日、御所の侍所・結城朝光が、頼朝の死を悼み「忠臣二君に仕えず」と述べます。
梶原景時がそれを頼家への不信表明のように頼家に忠告したため、朝光が誅殺されそうだという話を御所に勤める女房・阿波局が朝光に告げました。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、28日、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時と対決することを誓い、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業が糾弾状を作成し訴状を読み上げました。
訴状は和田義盛、三浦義村らから大江広元に渡り、頼家に提出するよう要請しました。
しかし、広元は頼朝に対する景時の忠節を考慮し、訴状提出を躊躇しますが、結局11月12日、頼家に提出されました。
頼家は連判状を景時に渡して弁明を求めますが、景時は抗弁せず、翌日には一族を引き連れて相模国一宮(神奈川県寒川町)の所領に引き下がってしまいます。
12月9日に梶原景時は、一端鎌倉へ戻りましたが、18日、景時は鎌倉を追放され、鎌倉の邸は取り壊され、播磨国守護に結城朝光の兄・小山朝政が任命されることになりました。
景時はここにおいて失脚したのでした。

正治二年(1200年)1月20日、梶原景時が一族を連れて一宮の本拠を脱出したという知らせが入ります。
この景時の行動は謀反によるものだということになり、追討軍が派遣されますが、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた在地武士たちに発見されて襲撃を受け、合戦となりました。
梶原景時をはじめ、子の景茂・景国・景宗・景則・景連、景季、景高ら一族はほとんど討ち死にしました。

『愚管抄』 の中で慈円は、梶原景時を死なせたことが、頼家自らの破滅につながったと評しています。

日本の歴史アップデートより引用


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