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【感想】NHK 歴史探偵「ハードボイルド!応仁の乱」を視聴しました

2021年11月10日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」23回『ハードボイルド!応仁の乱』を視聴しました。

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日本代表がWCUP予選、アウェーでベトナム、オマーンと戦います。
最低でも1勝1分ですかね。頑張れ!ニッポン
地上波は放送しないのでDAZNで観ます。
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1467年、京の都は戦の炎に包まれた。
日本を真っ二つに分けた応仁の乱だ。
混乱の元凶となった足軽を徹底調査。
応仁の乱、本当の姿をお見せします。

■スタジオで
佐藤所長「人の世むなし1476年で覚えています」
応仁の乱を細かく解説し出すアナウンサーに、”頭に入ってこない”とダメ出しです。
足軽から応仁の乱を見ていくといろんなことが見えてくる、ということです。

■京都の国宝・千本釈迦堂
・井伊達夫さん
千本釈迦堂の柱に痕跡があります。
500年以上前の傷、足軽がやった跡です。
この武器は戦国時代の戦の主役となりますが、応仁の乱で初めて大々的に使われたといいます。
『真如堂縁起』には、足軽は軽装で描かれています。
なぜそのような軽装で戦に加わったのか、当時の社会事情が関係しました。
飢饉で食糧不足が深刻化、京に人々が流れ込みました。
生きるため身一つで応仁の乱に加わります。それが足軽だったのです。
新しい武器とは、柱に深い穴を開ける威力を持つ、「槍」です。
足軽にとって扱いやすく頑丈な鎧も貫ける、最良の武器だったのです。

■バトル実況中継
完全武装の鎧武士対足軽の対決です。
一対一では武士の勝ちです。
次は武士1人対足軽3人の対決です。
足軽の勝利です。
こうして足軽は応仁の乱で主役になっていきました。

■スタジオで
河合先生「個人の強さより集団の強さが重要になってきたのです。槍は南北朝時代に出てきたと言われています」
どうやって足軽を募集したのでしょうか?
佐藤所長「チラシをばら撒いた」
河合先生「チラシはなかったのですが、募集をかけたそうです」
足軽大将どんな人物だったのでしょうか?

■足軽大将
骨皮道賢です。
『経覚私要鈔』に骨皮道賢の記述があります。
世紀末足軽伝説
骨皮道賢は、盗賊などを取り締まる室町幕府の役人であった。
精鋭300人の足軽軍団を結成しました。
東軍に加えられた足軽軍団の任務は補給拠点の破壊だった。
道賢が放った火は1kmも街を焼き尽くしたと言われる。
ルール無用の戦い方で戦力に組み込まれて行きました。
なぜなら、給料を払う必要がなかったから。
略奪仕放題だったのです。
『樵談治要』で公家は、足軽のせいで都の寺社や公家は滅亡したとか。
昼間の強盗だ。まさに下剋上の世である、と記します。

■スタジオで
河合先生「都の人は足軽を恐れていて、足軽禁止令が出ました。『東寺足軽禁制起請文』が出るほどでした」
朝倉孝景が家訓に、名刀を一本持つくらいなら百本の槍を買って持たせよ、と残しています。
足軽は京の街の形も変えました。

■CGで再現
・山田邦和さん
山名宗全邸宅跡は西軍の陣地です。
もう一方の東軍の陣地は、どのくらい離れていたのか調べてみました。
歩いて五分、東軍の細川勝元の邸宅がありました。わずか400メートルです。
意外と東軍と西軍の距離は近かったことがわかります。
両陣営とも御所の近く、逃げたら敵に都を奪われる場所です。
どうやって陣地を守ったのでしょうか。
『後知足院殿記』に記されていました、それは「堀」です。
都のいたる所に堀は作られていき、都の要塞化が進みました。
更に、敵の来襲をいち早く察知する方法も生み出されています。
・中井均さん
作事で柵や井楼櫓が出現します。
『辺春和仁仕寄陣取図』という絵図に描かれていました。
隅に置くのが井楼やぐらです。
大相撲の太鼓やぐら、高さ19mです。

陣地の建設にも足軽が関わっていました。

■真如堂
『真如堂縁起』に足軽の意外な姿がありました。
略奪しているのはお寺の木材です。
寺から奪った木材で井楼やぐらを建てています。
土木作業も足軽の重要な任務でした。

■新兵器登場
飛砲火槍です。
古い水道管のような武器が見つかりました。
・井伊達夫さん
大きなパイプのようなものです。
3本の銃身を3つにまとめた三眼銃というものです。
飛砲火槍の正体と見られています。
もともと中国の武器、沖縄に手がかりが残されています。
中城グスクで三眼銃が使われてました。
銃眼が設けられています。
籠城戦で守備側が用いました。

足軽たちの新しい戦い方を御覧ください。
300人の足軽が山名宗全の陣地を襲撃します。
井楼櫓の見張りが知らせます。
足軽たちが敵陣に火をつけました。
そこに三眼銃で発泡します。
守る側の西軍が勝ちましたが戦いは11年続くことに。

■スタジオで
河合敦先生「井楼やぐらは30m、10階建てのビルの高さです」
「今の工兵、工兵隊のような役割をもたせていたのです」
鉄砲が放たれたという書が残っています。三眼銃のことだとみられます。

副所長「都に住んでいた人たちはどうしていたのでしょうか?」

地方に疎開したり、都で浮浪者になったり足軽になったのです。

■応仁の乱後
都では、人々は徐々に戻り、活気を取り戻していきます。
足軽はいったいどこに?
奈良に記録が残されています。
転害門のあたりで略奪を行っていたのです。
奈良や大坂では戦が頻発、足軽が駆り出されました。
・小谷利明さん
足軽たちが京に戻ってきたのです。
人々はどう対抗したのでしょうか?
・山田邦和さん
智恵光院通に巨大な「堀」、6m深さ3mに及びます。
京を守る要だったのです。
堀をつなぎ、街全体を囲む「惣構」になっていきました。
京の総構は、小田原城や大阪城の100年先駆けるものでした。
西軍が陣を構えた、西陣。
京の伝統工芸西陣織です。
西陣織は、疎開していた職人が戻ってきて作られていきます。

■スタジオで
佐藤所長「西陣織まで足軽につながっているとは思いませんでした」
応仁の乱の約20年後に祇園祭が復活して行われます。
復活の象徴が祇園祭でした。
河内国・眞願寺文書『足軽段別』
足軽に給料をあげようというものです。
このシステムが全国の大名に広がります。
織田信長が、足軽を重用したのです。

次回は「大坂の陣 幻の大洪水」11月17日です。

■感想
元寇では日本の武士が一騎打ちしか戦ったことがなかったので、元軍の軽装な足軽軍団に苦戦したといいます。
おそらく応仁の乱では、元軍の戦いを取り入れたのではないでしょうか。
こういう、人間を駒のように平気で使う非情なやり方は、あちらの国々の得意技であり文化ですから、日本古来の文化でないことは想像できます。
足軽戦法や鉄砲は、戦争先進国の支那地域から日本に輸入されてきたのでしょう。
京の都で寺院は足軽の乱暴狼藉をただ見過ごしていたわけではなく、自警集団である僧兵が守っていたはずです。
自身で僧兵を養う力のない寺院が足軽軍団に狙われたのでしょう。
足軽の話で思い出すのが、近現代の戦争です。
ソ連とか人民解放軍が強いのは、人権がないために兵士を駒のように使えるからです。
駒というか、人間を盾にしてますよね、きっと。
クワバラクワバラ。


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