見出し画像

エチュード 谷間の人々1.

 幾つもの山筋を横切り、谷をまたいで列車は進んできた。ふっと気の惹きつけられる山と平地と川筋の配置があり、ホルンが吹き鳴らされているような山峡に思わず見とれていた。何のへんてつもない場所だが、妖精やケンタウロスの気配が吹き上げられている。ドビュッシーの曲のような午後の陽光が空間にみちている。座席を見渡すと何人かが身を乗り出したり、目を細めている。地元の人間でもなく、会社員でもない、つまり都会をほんの数時間脱出して、広大な人跡未踏の山塊に引き寄せられてしまった、魅せられたる魂の持ち主達らしい。私と同じ気の毒な落伍型都市生活者であり、霊的なる遠方に敏感な感性を持つ。               約束のポイントは列車からよく見えた。一筋の山道がその山の中腹に、うねうねと上がっており、中程が切り開かれて広場のようになっている。ベレー帽をかぶった男が、こちらに気づいているように、目を留めている。私が手を上げると、頷いて背を向けた。私は飲み残しの缶コーヒーを飲み干して、降りる準備にかかった。週末は登山者でいっぱいのコースを横切り、廃棄ガスで汚れた家々を過ぎ、その何かが高揚している濃密な初冬の午後の山へと近づいてゆくにつれ、私の中にある種の畏怖がざわめき始める。山かげが俗世の時間をせき止めて、うららかな孤立をもたらしている。

(画像は"森PEACE  OF  FOREST"小林廉宜。世界文化社より。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?