“騎士団長殺し”読書感想文22. 《超自然の関与なくして形にも文章にも生命力は宿らない》
“それから数週間、私はその絵をただ黙って眺めていた。その絵を前にしていると、自分の絵を描こうという気持ちはまったく起きなかった。まともな食事をとる気にもなれなかった。冷蔵庫を開けて目についた野菜にマヨネーズをつけて齧るか、あるいは買い置きの缶詰を開けて鍋で温めるか、せいぜいそんなところだ。私はスタジオの床に座り、『ドン・ジョバンニ』のレコードを繰り返し聴きながら、『騎士団長殺し』を飽きることなく見つめた。日が暮れるとその前でワインのグラスを傾けた。見事な出来の絵だ、と私は思った。……この絵の中には明らかに、普通ではない種類の力が漲っている。……
そして私達はその画面の左端にいる鬚だらけの「顔なが」から、どうしても目が離せなくなった。まるで彼が蓋を開けて、私を個人的に地下の世界に誘っているような気がしたからだ。”
超自然を描くのは村上春樹氏の真骨頂の一つだ。単なる人生の底深く流れる時代や深層意識や宇宙的な深淵を、登場人物に接続することは同時に村上春樹氏自身にも、戻れるかどうかわからない深淵への通路を開く技法でもあると思う。ニーチェだったか、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」人間以上なものとは、道徳的倫理的に高いものだけでなく、時間空間や生死を越えて、わずか数十年を過ごす小さな内宇宙である人間をはるかに超越する、意識エネルギーと言える。故に画中の「顔なが」は、そこで確かに“私”を観察している。村上春樹氏の執筆時にも、私達がこうして氏の作品を読んでいる時にも、覗き込むものが確かにいて、私達も村上春樹氏も覗き込まれているのだ。何百年またそれ以上に超自然である“なにものか”の関与なくして、形にも文章にも生命力は宿らない。神々や天使精霊、悪霊もまた私達をいつも覗き込んでいる。雨田具彦画伯が連れてきた或いは、この絵を描かされた“存在”達がすでに越境して私達の中にも来ている。2022年2月2日22時22分が近づいてくる今。
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