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永遠性のようなもの

数十年前の風の中で揺れる木の枝の記憶から、ふと、自分の人生で“永遠性”のようなものを感じたことはあっただろうかと自問した。
1つ目は、おそらく小学校の頃、家の南側の斜面を一人登った時のこと。峰からの瀬戸内海側の眺望を見て、岩場や土の坂を降りつつ、ふと振り返ると、登る時には気づかなかった椿の一枝がまるで贈り物のように落ちていたのを家に持ち帰ると、祖母が何気なく活けてくれたこと。山の神様からの贈り物と、今でも思っている。
次はやはり、大学に入り東京高輪の県人会寮の裏庭で、電灯の明かりの中で風に揺れるイチジクの枝だった。青春の入口から吹き寄せる豊穣なる暗黒、不安と希望が押し寄せている夜。
3つ目は、やはり毎夏アルバイトしていた八丈島大洋第一ホテルのロビーから見た、夜の太平洋と空間の境界で風に揺れる棕櫚の木だ。あまりにも原初で人界を越えた時空。物語もロマンティシズムも通用しない荒々しい世界。
4つ目は、40代になり、与えられていた生命の豊かな潮流が弱まり始め、風船から空気が漏れ始めた頃、西武池袋線沿線の、正丸峠駅あたりから見た、夏の大気の中で、陽炎の中で振動していた名もしれぬ樹木の枝だった。様々な霊的体験や超自然領域の知識から、偶然感じた“永遠性のようなもの”、それは夏の大気のかげろう微振動だった。
そして今また真冬の風に宿る春の微振動が私の深い源をいざない魔力をかけてくる。古典的な内的な春の嵐が私を未知なる冒険にいざなう。

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