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自己肯定感を高めてくれる人との不釣り合い

会って話をするだけで、自分の自己肯定感を上げてくれる人がいる。会えると嬉しいし、もっとその人たちに近づければと思う。お店を営んでいる人が多いかもしれない。


いま思いついたのは、大洗の本屋さんに日立の珈琲屋さん。つくばの占いをしてくれる珈琲屋さんもそうだ。最近だと、近所の雑貨屋さんにも懐いている。雑貨屋さんなのにお茶を出してくれて、レジカウンターで閉店後までダラダラとおしゃべりすることもある。初めて入った日、スピーカーからhalca nakamuraのピアノが流れていて、ここは好きになるなと直感した。


別に特別たくさん褒めてくれるというわけでもない。ただ共通しているのは、いつも自分ばかり話す時間が長くなってしまっていること。気付いたら身の回りの出来事や自分の心持ちについて話していて、その時間に満たされている。話を聞いてもらえるというのは、心にとてもいい。

実際どうかは置いておいて、少なくとも僕はそういう人たちに「受け入れられているのかも」、「見つけてもらえるかも」と思って、勝手に懐いている。みんな大きく、優しいなと思っている。


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一方で、優しく接してもらえることへの不安もある。ひどく勝手な話なんだけど。


自分が自己肯定感を高めてもらえている代わりに、相手の何かを奪ってないだろうか。優しくて好きな人たちを、無邪気に消耗させてないだろうか、という不安。

好きな人や面白い人の話を聞くのは楽しい。そう思う人が多いように思う。逆に、そうでなかったり興味のない人の話を聞き続けるのは疲れる、という人も多い気がする。

こう見えて自信がなく、そしてわかりやすく拗らせている僕は、話に付き合ってもらっているというだけで、つい消耗させてないかと気になってしまうのだ。その時は夢中でも、帰り道に反省会をすることもしばしばある。


特にそんな気持ちを強くさせているのは、僕がその人たちの「お店」に会いに行っているからかもしれない。

お店(場)の人とお店(場)で会うということに付随する不釣り合いのことが、数年前から頭の片隅にある。簡単に言うと、食事や遊びに誘いあっていくのと違って、会う約束をしなくても僕は会いに行けてしまうのだ。このことに自覚的である自分でいたいと常々、思っている。


だから、時々不安になっている。勝手に。
自分が話を聞いてもらえて元気になっている一方で、その代償のように好きな人たちの元気を消耗させていないだろうかって。

僕は自分のことを寛容で心が広い方だとは思っているけど、それでもたまに人とのコミュニケーションに疲れることはある。これはもう仕方ないというか、どちらかの良し悪しじゃなくて相性の問題だとは思っているが、

分かっているからなおさら、大事な相手にその「仕方ない」を強いたくはない。それは嫌だ。


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一度、この身勝手な不安を少し打ち明けたことがある。


その人は「いや、そんなことはないよ」と笑って返してくれた。安心した。安心したけど、ごめんなさい、拗らせてるもんで、「気を遣わせてるんじゃないか」なんて、やっぱりまだちょっと不安だ。信じてないとかではなくて、誰でも人の本当のところなんて、ちょっとやそっとじゃわからない。


不安なら会いに行かなければいいんだけど、それもそれで寂しい。もっと近づければいいなと思って、またきっと会いに行ってしまうと思う。


だからその時に僕が気を付けられるのは、場を持つ人とその場で会うという「不釣り合い」と、相手を消耗させている可能性に、自覚的であり続けることかもしれない。「思いやり」とか「リスペクト」に含まれるのだろうか

それくらいしかない気がするけど、僕が返せる優しさの形だと思っている。
優しい人は、優しくされていてほしいから。



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一応、心理学畑の人間なので、「自己肯定感」という言葉の定義とか、自尊感情や自己効力感などとの区別をちゃんとして書くべきだったかもしれないけど、くどくなりそうなので割愛しました。「自分のありのままを肯定できる感情」くらいのイメージで使ってます。

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