全フリ人間のこと

揉めるつもりもなければ他所でやるのもちょっと気がひけるので、自分のところで引き取る話題。
芸術について。
繰り返すけど、これは揉める意図ではない。

よく人間をステータス値で例えるが、芸術に全振り、という人間は果たしてあり得るんだろうかと昨日からずっと考えている。

この話題は多分、努力と才能の関係の問題に近い予感がある。努力全振りvs才能全振りという、想像上の生き物の対決のどっちが勝つかというウルトラファイトになりがちである。それを避けるためには、論の冒頭で「全振りなんてねえだろ」というのを建てなければならないが、残念ながらこれは「全振りってあるのかな」という話題である。

個人的に言えば、全振りはないとは思うのだけどその論拠は「だっておれそうじゃないし」という弱いものになる。それはお前が違うだけだろ、と言われると返す言葉がない。「それにお前別に天才じゃないしな」の分岐に入ると傷つけ合う応酬の未来しか見えない。
残念。
天才は自らを自ら以外では証明しない。

残念だが殺し合いルートを回避する手段もないので、それはもう置いておくことにして話の続き。
弱い論拠から、いつも通り自分の話をすることにする。

僕が二十歳そこそこの頃、まあまあ自分が天才であろうという自覚はあった。なんでもだいたい思うようにできたし、鍛えなくてもできた。大筋で僕という人間は完成しており、足りないものはなさそうだなと感じていた。
だがその後、色々あって、書きたくなくなってしまった。
もっとはっきりいうと、つまんなくなってしまったのだ。
書けば書ける。だけど、書くものを作るために生きてる気がして、うんざりしてしまったのだ。嫌なものとかつらいものを克服する物語が書きたい、と思って、自分は辛くもないのに、抑圧されているものを探しに行くというのは本末転倒だ。登場人物たちを物語構造のために一度抑圧するのは、彼らを「消費してる」ってことじゃないかって思った。

そこで僕がとったのは、自分がどれくらいボンクラなのか確かめるという行動であった。
要は、自分の才能というものを信用しないことにしたのだ。
おまえは題材があれば書けるのは分かった。じゃあ、それは「専業」じゃなきゃ書けないのか?毎日たっぷり時間をとって、環境を整えてやらなきゃダメか?パンツを脱いだり履いたり、手伝ってやらないといけないのか?
僕は僕を試すことにした。

僕は、忙しいだろうな、と予測される工場に就職した。才能なんてカケラも期待されていない「機械を動かすだけの歯車」として扱われるのを期待して、夜勤ありの印刷会社だ。校正能力も、レイアウト能力もユーモアも、喋る能力すらも求められていない。機械の付属品。

何者でもなく働きながら、僕は決して自分の話をしなかった。何が得意なのか、何がしたいのか、何に不満を持っているのか。何を愛しているのか。
僕は大勢の人の中にあり、そして確かに孤独であった。そして、書かぬ中に物語が自身のうちに蓄えられるのを感じていた。

夜勤明け、白んでいく空を見たのは今でも覚えている。どっかの女の子が、同級生を刺して殺してしまった日の夜だった。僕はなんとなく、芸術と一緒に生きるということを理解した。
それは言葉にすると陳腐ではあるが、ぼんやりと形になっていなかったものを、形のないまま受け入れるということだ。

僕は不定形の精神のまま、この先も、なんとなく許されるもの、許せないものを選り分けるだろうと思った。形のないものに形を与えるところまでできると思うのは驕りだ。影しか記述することはできない。あるいは辛辣に、克明に「ある側面」だけを描写するだけ。いつか理解できるんじゃないかと信じて書くのではなく、決して理解できないことを知って、なお書くこと。

結局、それからちょっとしたら、その会社ではまあまあ天才であるのがバレて、歯車ではいられなくなってしまった。以降、転職したりしなかったり、相変わらず忙しい生活をしながら、以来、まあまあ芸術と一緒に生きている。

これは、おれは苦労したんだからおまえたちも苦労するべき、という話ではない。また、僕の得られなかったものを手に入れるやつが羨ましいという話でもない。

僕は、純粋芸術というものは存在しないと考えている。強いて言えば、「障害者アート」というのが「いわゆるところの純粋芸術」に近いのかなと思うが、彼らのそれは「社会性が低い故の美」ではない。
すごく微妙な表現を使うと「目が悪いものにも理解できるものであれば『ほんとうにうつくしい』に近いんじゃない?」というような推論に基づいてそう、という感想がある。あんまり支持しない。
能力の欠如やハンディキャップは、直接的に美を後押しはしない。それはそれぞれ独立した別個の能力だ。障害者であるが芸術から遠いやつだっている。健常者と一緒だ。何も変わらない。

生活というものを不純物だと考える一派については、好きではないというだけではなく、理屈としても誤りだと考えているが、そこを突っ込むと大抵早晩「これ?この出来で純粋芸術って言ったの?念のためもう一回聞いていい?」という前述の殺し合いルートに落ちてしまうので避けて、ここでは単に「好きじゃない」に留める。

僕は、芸術能力が突き抜けている人間がいることを否定しない。ただ、それと社会能力が欠けていることは相関しないと考える。大体において、社会能力は欠けているのではなく、優先順位が著しく低いだけなのだ。

乱暴に言えば、やりゃあできんだよ、なのだ。
興味ないものには極力リソースかけずに生きていたいから、芸術に特化してアウトソーシングしようというのは理解できるし、僕は好きでははないけど、そういう人もいるだろう。

しかし仮に社会能力がほんとに欠如した存在があったとしたら、それは、極めて個人的に支援するか、そうでなければすでに存在する福祉システムに任せるべきだと思う。
軒下の木は、庇を超えては伸びられないと思う。だけどたまには、庇をぶち壊して軒ごと持ち上げる木もあるし、まあ、いいんじゃないのとは思う。

ただ、やっぱり、他の能力が欠如していることと相関はない。
仮にあるとしたら、欠如しているものを補ってはいけない。かわいそうだけど、断末魔の苦しみでしか書けないものを書く能力に秀でていたなら、断末魔を長く細く続けられるようにチューンしてやらねばならないのだ。

で、どんなのだって最後は「芸術に全振り?生活に根ざした芸術?おまえら、どっちでもいいけどもうちょっとマシなもの作ってからもう一度言えよな」という絶対強者に蹂躙されるので、基本的には安心感高めの、この虎の世界。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?