承認欲求(2016年3月31日採集)
「(他者から)承認(されたいという)欲求」というものを、人を惑わせるものの筆頭だと思っている。
誰かに認めてほしい、という欲求を隠さないのはさもしい、という話ではない。欲求を隠さないのはむしろ好ましいことだ。
僕なんかは舌垂らしてハッハッ言いながら、ねえ読んで、僕の書いたもの読んで、という姿勢を隠さない。
ねえねえわたしかわいいでしょ、という蠱惑的な囁きもたまらない。
こんなの朝飯前なんですけど、と寝不足の顔で強がるメガネにはイチコロだ。
僕が、相容れないと思うのは承認欲求と自己承認の位置関係を間違えた人を見るときだ。しばしば、それは強い怒りとともに顔を出す。
断言するが、自己承認はあらゆるものに優先する。自分で自分を愛せないやつに、決して幸福は訪れない。
順序はどうでもいい話なのだ。
承認欲求が満たされることで初めて自分を愛せるようになる人もいるだろう。幸運の結果をもって、それを根拠に自己承認する人もいるだろう。
しかし、自分を愛するというのは生物としての完全なゴールであり、そして社会的な動物として全ての出発点でもある。異論あれば聞くが、これについては論破の用意がある。
今の社会は、自分を愛さないやつでも生きていられる社会だと感じている。出発点にも達していないやつが、のうのうと感慨も喜びもないままにただ、日々の飯を食らって、そのまま何をなすこともなく一生を終えることが許容されている社会だ。
僕はそれを否定しない。
だが、構造としてはすべての人に出発点に立つチャンスを与えるべきだと思っている。自分自身を愛せるようになるチャンスを。
自己承認は、強固で尊いものだ。他人の力を借りて成し遂げたものであっても、掛け値なく尊い。
あなたがあなたを愛することを、誰も止められやしない。あなたを貶めるのは、あなた自身に他ならないのだ。
だからこそ僕は怒りとともにあなたがたを見る。
己の恵まれた環境を、努力で作り上げたものを、賢いという自己認識を、何より人間らしい煩悶を、棚ぼたの信じられないくらいの幸運を、受け継いだものを、産んだ子を、向けられた愛を、友誼を、あなたがあなたを愛する根拠たるすべてのものを、「他人から承認されないと満足できない」と貶めるあなたを許せない。
見せびらかしたくなるのはいい。それは自然のことだ。やりすぎるとはなにつくが、でもそれはいいよ、人間だもの。でも、承認欲求はいつだって目的地ではない。ほんとうをいうと手段ですらないのだ。ただの生理欲求みたいなものだ。
生理欲求だけを頭の上に掲げて暮らす人はさもしい。ウンコ製造機とは、まさにそのような人のことを言うのだと思う。
承認を強いてくる相手というのは、赤子のようなものだと思う。まだ出発点にも立っておらず、無邪気にクソを垂れるなら僕はあなたを赦そう。
だが、一人前に自己承認しているという顔をした大人がそういう姿勢をとるなら、僕にできるのは、中に絆創膏と石をぎゅうぎゅうに詰めたオムツを思いっきり顔にぶつけてやることしかないのだ。
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