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アロハ通信#18 ハワイに移民した大伯父のこと (六甲もこ)


プランテーション労働者の住まい

「いざ行かむ吾等の家は五大州誠一つの金武世界石」

これは、沖縄移民の父と言われる當山久三氏が1903年、第2回ハワイ移民の渡航の際に読んだもの。フロンティア・スピリット溢れる、なんとも力強い歌です。

私の大伯父2人も、沖縄からではありませんが、福岡の寒村から、この歌のように湧き立つ想いを胸に布哇(ハワイ)へと旅立ちました。もう100年程も前のことになります。父を亡くし、子供を8人も抱えた母を助ける為に、上の2人が出稼ぎに出たのです。私の祖父は末っ子ですので、彼らより10歳以上も年下になります。

彼らが落ち着いたのは、ハワイ島の小規模なプランテーションでした。2人ともまだ少年で、冒険心の方がまさっていたようです。プランテーションでの厳しい農作業に従事しつつ、実家に仕送りを続けました。大伯父の一人は契約が終わり日本へ戻りましたが、一番上の大伯父はハワイに残り、オアフ島へ出て内装業で成功。2世の女性と結婚し、大家族の長として充実した人生を全うしました。

この大伯父は子供の頃からとても目端が効くタイプだったそうです。プランテーションでの厳しい労働の中での、大人の男性の娯楽と言えば博打。熱くなって、夜な夜な遅くまで博打に耽る人々を相手に、大伯父は残り野菜などで作ったおつまみを売り始めました。熱くなって理性を欠いた人々は、少年が売るおつまみをどんどん買ってくれたとか。そのお金をしっかり貯めていたそうです。

世代が違うため私は大伯父には一度も会った事はありません。が、祖父の家に飾ってあった大伯父の写真はよく覚えています。老齢の大伯父と祖父が、そっくりな笑顔で笑っている写真。祖父がハワイに大伯父を訪ねた際、今は亡きレストラン「ジョン・ドミニス」で撮ったものだそうです。色違いのアロハシャツを着た二人の写真は、本当に良い笑顔で、海を挟んで何十年も会えなかったにもかかわらず、和やかで親しみに満ちたものでした。

この大伯父の送金で、祖父の実家の暮らしは劇的に改善しました。力強く陽性な大伯父に比べると、私の祖父は身体が弱く大人しいタイプ。ただ、勉強が大好きだったため、寒村から初めて旧制中学へ、そして最高学府まで進むことができました。

祖父は農学部に進み、稲の品種改良に取り組みました。贅沢一つせず勉学に打ち込んだのも、大伯父の恩に報いるため。卒業後は農事試験場の技師となり、強い稲で寒村を救うことに精を出しました。とてもストイックな祖父と磊落な大伯父は一見正反対のようですが、強い絆で結ばれていたようです。

私が小さい頃、もう大伯父はかなりの高齢でしたが、ハワイから祖父のもとに何度もボックスが届いたのを覚えています。その中には私たち孫へのプレゼントがたくさん入っていました。キスチョコ、マカダミアナッツ、コーヒー、Tシャツやムームーなどなど。異国の香りがするプレゼントに、家族一同大喜びしたものです。

この大伯父の影響で、後に叔母がハワイへと渡り、さらにこの叔母の影響で私もハワイへと渡ることになるわけですが、そのあたりはまたの機会に…

大伯父や祖父が死去し、次の世代になると、次第にハワイの親戚との縁も薄くなり、今や完全に途切れてしまいました。が、今も大伯父のファミリーがたくさんいるはず。いつか会ってみたいものです。

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