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【短編】  思い出を失った日に


今朝、布団に穴が開いた。五年前に亡くなった母が上京するときにくれた、いわば最後の形見みたいなものだった。
「大学生になって忙しくなるんだから、せめて布団くらいはしっかりしたのにしなきゃね。」と、一緒に買いに行った母は言ってくれたのに、いっこうに大学は忙しくならないまま終わり、母だけが帰らぬ存在となってしまった。
だからこそ、五年経って破れてしまった布団がまるで、楽しかった頃の母の思い出ごと穴が開いて無くなってしまうような気がして…。私に出来たのはただやるせないまま、朝を過ごすことだけだった。
 
 午後何気なく買い物に出かけた先に、ホームセンターにたどり着いた。
(もう切り替えて、新しく生き始める時なのかもしれない。)
そう思ってぼんやりと店内の布団を見ているうちに、彼に声を掛けられた。
「お布団、お探しですか。」
「あ…、えっと…。そうなんです。どういうのがいいとか、全然、判んないですけど…。」
「もしよければご案内しますよ。」
そう言ってにこりと微笑んだ彼を見て、私はきっとこの人は私とは違う明るい世界に生きてこられた人なんだろうと、そう思った。
大学生らしく若々しく見える彼が屈託なく笑う姿は、私にはどこか痛々しく突き刺さる。
「あの…。」
「え?」
「何か辛いこと、ありましたか。ずっと苦しそうな顔して店内を回っていたのが、すごく心配になって。今も…。」
え。
「いや、全然…!そんなこと…っ、なく、て…。」
涙が抑えきれなかった。
ただのホームセンターの一店員に対して、ここまで感情を見せつけてしまうのが間違っているのは分かっている。
でも彼の思いもよらなかった優しさが、未だに痛んでいる心の古傷をなだめてくれる気がして…。

結局、大筋を全部話してしまった。身近な人ともう二度と会えなくなってしまったこと。その人がくれた大切な布団が破れてしまったこと。今もきっとその人への傷を癒しきれていないこと。幸い店内は空いており、辺りにいるのは彼と私だけだった。
「それほどその方のことを大事にされていたんですね。」と彼は言った。
「くるしい、ですよね。その人との思い出とか、時間とか、使っていたものとか。そういうものがなくなっていくこと。それに向き合うこと。そしてそれを諦めていくこと。」
「……っ。」
「気持ちを全部分かってあげられるかは分からないですけど、僕もそうだったんです。身近な人と上手くいかない時があって、傷ついて。」
私は整理出来ない気持ちとぐちゃぐちゃになった顔で彼を見ている。
「散々悩んだうえで思ったんです。人間なんて結局他人ばかりで、自分の全部を分かって貰えることなんて出来ない。結局は苦しむのは自分で、最終的には独りぼっちなんだって。」

「でも、気持ちや苦しみが正しく分かってもらえなくても、ただそばにいて寄り添うことだってできるんだって僕は思ってます。昔、自分が本当はそうして欲しかったように。それが自分や誰かの心を開くことに繋がるかもしれないから。」
「えぇっと…、だから、」
「あなたの苦しみはきっと、あなただけのものなんです。今はその気持ちをちゃんと大事にしてあげていいんですよ。」
「そこから手に入れられるものも手に入れられないものもあって。それもきっと今のあなたなんです。」
「そんなわがままな苦しみに最後まで寄り添ってくれる物好きだって、きっとどこかにはいますから。」
「今、僕はそんな苦しみを持つ人の力に少しでもなりたくて、前向きに生きるんだって頑張ってます。」

日が落ちて窓の外の景色が暗くなり始めた。しかし店内は変わらず明るさを保っている。私達のいる世界がずっとこのまま明るくあり続ければいいのにと思う。

「僕だって突然『大丈夫ですか』なんて聞いて、ナンパだと思われるんじゃないかって不安だったんですよ?」
と、冗談めかして彼が笑う。こんなことを本音で言っていそうな所も、どこか彼らしい。
「でも、いいんです。誤解されるかもしれないし、やり方は正しくも美しくもないかもしれないけど、それでも新しく手取れるかもしれない何かを僕は信じたいんです。」
代わり映えしない景色のままでも、世界を美しいと思えた気がした。

「なんか、説教臭くなっちゃってごめんなさいね。布団ですよね、布団。」
と、語り終わった彼は、照れ臭そうに辺りをうろうろと見渡し始める。その様子が可愛くて、私はくすっと笑ってしまう。その笑い声を聞いて、彼も振り向いて笑いかけてくれる。
「私、帰ります。布団はまた今度、買いにくることにします。」
「分かりました。いつでも、また来てくださいね。来たいなって思ってくれた時でいいので。僕はここで、きっと待ってますから。」
私には彼の姿がどこか切なく輝いているように見えた。でも間違いなく、温かく人を受け容れる何かを含んでいた。

またここがある。新しく掴める何かがある。そう思ったとたんに少しだけ元気づけられる気がした。人生はきっと、こういう帰ってこれる『ここ』を増やしていくことの連続なのだろう。

ただ、本当に彼とまた出会えるかは分からない。もしかしたらここで彼と会ったことすら忘れてしまうかもしれない。
いつの日か悲壮感に打ちのめされて、こんなきれいごとに意味なんてなかったと思う日がくるかもしれない。

ただ、そんな訪れる絶望すらもなんとかしてくれるような何かがこの世界にはあることを、今は信じたい。

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