見出し画像

ばかみたい


母が海外に留学している兄に送る荷物をまとめている。
9月から増えたとかいう手続きがとても大変で、俺からしてみるとその懸命さは一体どこから来るものなのだろうと思った。
なんだか申し訳ないのだという。
去年兄が19歳にして離れてから、何もしてやれていない、と。

俺には弟がいて、そのこは3歳、俺は17歳。
ここまで生きてこれたのは守られてきたからなんだと思うことが増えた。
自分ができない税務手続きを見ているたびに、しんどそうに毎日ご飯を作ってくれる母を見る度に、よく分からない仕事相手とのzoomミーティングで少し聞こえてきた感じの悪い声とそれに返す感じの良さそうな父の声を聞く度に。
俺はそれらをなにもしてこなかったし、いまもたいしてしていないし、そしてそれに対して、特段咎められるでもなく、ここにいる。
それは、そういう父と母の元に生まれて、こういう状況で生きてるからなんだと、実感はなくとも理解はしてきたと思う。

あまりにも世界に分からないことや、ものが多すぎて、俺は嫌になった。
昔は漢字のドリルをやったり、数学の課題をしたり、ノートを取ったりしていたみたいだが、今はそれらはやっていないし、勉強と呼ばれる勉強も、学びといわれる学びも、積極的にやろうともしていない。
絶望しかみえないようで嫌になって、同時に絶望することの楽さを、なんとなく感じて、なんとなく、その大して結局楽でもない"楽さ"を求め続けて、気づいたら今日になっている。
生きている、感じている実感が湧いていないようで、その感覚を遠ざけてもいるようで、つくづく自分はびびりだなと思う。

評価を他人に置きながら、他人の評価から逃げている。
これはなんなんだ、とよく思う。
そんな、なんなんだと思うようなすっきりともしゃんともしない、風呂に入らずに目覚めた日のもやもやする頭のような感覚を持っては、それを遠ざけるようにSNSを惰性で見る。
大して知りたくも無い情報と、知らないといけないと思う情報をわざわざ判断してわざわざ分けながら。
俺は知らないとと思う情報を見ない。
楽じゃないから。

ずっと胃の裏に固くてぐにょぐにょした溶体のスライムがへばりついているみたいだと思う。
それをより強く感じる時は、そのスライムが布団に落ちていって、体から周りの重力とくっついて、動くのがぐわんとつかれる。
スライムで肺が狭くなって、息も変。
このスライム、なくならない気がするんだよなぁ。
何度でも、気づいたら覆われているような。

まっすぐ歩いてない。
こうはいうのに、でもしてることはこう、とか、そういう矛盾で、やろうとしてるのもやめようとしてるのも自分っていう、どうにも動きにくいやり方で地面に這い蹲ったりしてる。
そういうのがもう何年か続いて、慢性的な冷や汗がでるような感覚も、繰り返していることを覚えてきた気もする。

常に脱線している乗り物みたい。
なにかの羽目違いや、1歩ズレればゆるやかに泥に足を取られていくような感覚。
はずれてる。俺の身体も、感覚も。

どこかで、俺は本当は居ちゃいけないんだとでもいうような骨の重みを感じてる。
不機嫌、ため息、疲れた目。
俺はいない方が良くて、なのにいる。
しにたいっていうか、自分から離れたい。
戻ってこれないくらい遠くまで離れたい。
敗れた袋を握りしめる手に込める力も、元々そんなになかったのかもしれない。

世界が終わりそうな軍用機が落下するような音。
それを聞く度に人は死ぬしそれに理由はないってことを、読み聞かされているみたいだと思う。
あなたは別に幸せじゃないし、不幸じゃないっていうように。

遠くでなってる電車の音はいいものだと思っていたけど、終電に乗った時に、この人たちが乗る音で、これを動かす人がいて、そういうこと見て、全部じゃないって感じると、きれいって、ばかみたいだなぁって思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?