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指先が折れてほしい

学校に行かなくなってから色んなことが変わったが、いまでもふつと感じることがある。

共感ができなくなった。

人の痛みを分からなくなったと思った。
幼小中高の多くの記憶がなく、経験したことを覚えていかなくなった。
言葉にすることが厄介なのだが、記憶喪失とは違う。
人に言われればなんとなくそうだった気がしたり、その事実の記憶が蘇ってくることもあるし、話している時に引きずり出されるようにさらさらと出てくることもある。
ただ感情を覚えていない。
その時何を感じていたのか、何が好き、何が嫌い、そういうものが記憶に付着しなくなったというか。

もともと、そういう付着物が多い人間だったのだと思う。
映画や本や漫画、そういうものを見たり人の話を聞いたりして涙をながし、胸のつっかえるような痛みを感じていたと思う。
だから今でもふと、じんわりした寂しさを覚える。

本を読んでいる時、頭が真っ白になる。
文字だけを追う。
登場してくる人間に感情移入することが困難になった。
頭に何も浮かばなくなったから。
誰かが泣いていても、労りの目を向けようとして、労りの目を作るようになった。

ずっとなにかの後ろめたさを感じている。
誰かに辛かったと話す時も、本当に辛かったのと聞かれたらそんな確証はどこにもなく、自分でもそうだったのか自信が持てないことを言い当てられるのではと思った。

共感は私にとって連想だったのだろう。
誰かになにかがあった時、もし自分にそれが起こったら、或いは自分の経験したあの感情に類似したものかもしれない、と、相手の中の自分をみつけて、それを救おうとすることが共感だったのかもしれない。

人を見て想起しなくなったことは大きかった。
自分はソシオパスなのだと不安になる。
ほんとうはあなたのことなんて心配していなくて、でも心配が降りてきてくれなくても、感謝が降りてきてくれなくても、そうしなければいけない場面だと思うからそう見えるように肉を動かしている卑しい人間だとバレることが怖い。

今まで自分が自然にできていた基礎的なこと、または自分がやっていると思っていた体の動きができない。
前は我慢していたことが耐えられない。
続けられない。
考えられない。

とても屈辱的に思うことが今でもある。

学校をやめて、学校で会わない人に出会い、学校に行っていたらできなかったことをして生きている。
学校に行かなくても仕事をしていなくても自分は生きていて、生きていれていた。
親のおかげ、周りの人のおかげであると言えばそれはそうで、だけどずっと虚にいるようだった。

進学も就職も自立も資格も、つまり人に聞かれる「今後」を何も考えていない。
おかしい。
それでは生きていけないはずだ、そんな状況では生きていてはいけないはずだ。
それはおこがましいことで、甘えで、それはとても怠惰なことなのだ、と、心臓に手を当てながらそういう音が聞こえる。

学校に行っていない。
だから、親の経済力やケア労働に依存していることは許されないことだと、常に誰かに言われているようだ。
学校は免罪符だったのか。
私は社会から求められる要請に応えているのだから、これだけのことは受けられて然るべきだとおもっていたからこそ、免罪符がなくなった心もとなさがついてまわっているのか。

「心が折れてしまう気持ちも分かる」
と言葉をかけられる。
「私は楽しいから行ってるたけで今どき高校行かないなんて別にいいことでしょ」
と言われる。
「このあとどうするの」「なにかしたいことはないの」「目標はないの」「朝起きれないのにアルバイトなんてできるの」「現実的になった方がいいんじゃないの」
「好きなことをしたらいい」

ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、

は、は、は、はっ、


なぜ私は何もしていないのにこのご飯を食べれているのだろう。
なぜ私は暖房をつけられるのだろう。
なぜ私は、なぜ私は、こんなにも恵まれているのにもかかわらずその立場にあぐらをかいて勉強も見通しも立てず家で日々過ごしているのだろう。
こんなんじゃ生きていけなくなる。
言い訳ばかりする怠惰な人間なのだ、私は。

何をのうのうと生きている。

そう言っている声と、そう言わされている声が重なっているよう。

罪悪感は何も生まない。
感じた相手のためになることはない。
そう言っている人がいた。

たとえ二酸化炭素の排出量の多いゴミを沢山だす生活を営んで、思考停止を繰り返して生きていることを詫びたとて生きているだけだから。
ただ生きているだけだから。
謝ってる。
下心だけで。

人の痛みが分からない、話に一貫性がなくて記憶力が悪く、要らない賭け事に勝機なんてまるでないのに参加したがって未来のないことなんてわかっている、ただの心細い拗ねてる若者。

生きてこれてることに理由なんてない。

生きていることに意味なんてない。

そんなのを求めて、小さな基準に従って「自分を切りました」と言っても、誰も責任はとってはくれないし、手はあっさり離される。


複雑で困難でも切捨ててはダメだ。
裏ずけなんてできようもないのに意味なんてほざいてはだめだ。

死にたくないから、そう思う。

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