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ない

「2024年4月」
と消費期限が書かれていた。
不思議な気持ちになる。
ないはずのものがあると仮定されているような。

私にとって生きていることは、そんなに長く見えない。
明日が少し透けて見えるかな、くらいで、10日後も1ヶ月後も3ヶ月後もわからない。
モヤがかかっているような、そんな感じ。
私の周り全てにモヤがかかっていて、足元も、見えるか分からない。

「最低でも2年は働いてほしいんですよね」
と言っているひとをみた。
2年後もあるんだ、と思った。
2年後なんて私には全く訳の分からない話をされているようにしか思えない。

みんなにはあるんだろうか、2年後。
私にはいつもないんだけど。
求められると困るし。
よく訳が分からない。
カレンダーに書いて、少し、感じられるようになるぐらいで。

私には分からない色んな力や理由やそうでないことが世界にはあって、それを予測するのも考え尽くすのもできないように感じた。
もやを探って少しは手触りを感じることができるみたいだけど、それをしているひとはかなり疲れていたし。
疲れたくないとか、大変な思いをしたくないって気持ちが、いつからか私の体のどこかに必ず居た。

乾燥した空気。あたたかい部屋。
日の差す窓。かわいた喉。匂いのしない鼻。
カーテンに写るゆがんだ影。
体の覚えてる小学生の冬も、きっとこんな感覚だったのだろう。

ほとほんどのことを忘れている。
忘れているからできることがあって、大切にできるものも一日の中で考えられることにも限界がある。
しんどくなって体が止まる限界。
だけど、体が覚えてることを知る時はいつも、少し寂しくてうれしい。

明日がないことは悪いことだと思わない。
将来がないとか夢がないとか言われることが多いけど。
私の明日のなさは、別に絶望でも希望でもなくて、ただの本当のこと。
ずっと今しかないし、今自分が生きてるってこと以外のことをそれ以上に理解することができないから。
私のおなかが痛いってことをわかることはできても、ジェノサイドはわからない。
母が何を思っているのかも、あの人がなんであそこに居るのかも分からない。

わからないことはそんなに悪いことだろうか。
だって分からないのに。
わからないから、わかろうとするっていう、その行為に大切なものの一部があるっていうのは、私もそう思う。
だけど人生は分からないのになぁ。
なんで分からないって言うことは許されないし、そこまで恐れられるんだろうか。
どんなになにをがんばっても、全てをわかることも知ることもできないのに。

悲しむことができるって思うようになった。
何も悲しくなくなってから。
それは多分、色んなことがそうだ。







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