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僕の大切な違和感


2022年9月16日の文


最近、あるきっかけで知り合った人と、よく遊んでいる。
僕にとったら友だちって、月に一回連絡とるぐらいな、そんな感じのもので。
お互いお互いの人生を生きてる中で、たまに、会う。
誕生日とか、長期休みとか、都合が合う時に。
だから、二週間の間に二度も会うというのは、「よく会ってる」にはいることだった。

初めてその人に会ったのは、レコードの屋の前で店内を見ていた僕に、彼が話しかけてきた時だった。
そこから、話しながら駅まで一緒に行って、電車に乗りながら話して帰って、そして、次の日も一緒に帰った。
その後、LINEを交換した。
いい人だ、と思った。
言葉が丁寧で、気持ちを伝えてくれる。
初めて一緒に帰った日に、僕が電車から降りる時「今日は本当にありがとう。楽しかった。また明日も会えたら、話せると嬉しい。」と言われた時は、こちらこそ、と言いながら頭の中ではどぎゃんびっくりな感じだった。
今時、同い年の人でこんな人いるんだ、と、ちょっとしたうきうきを抱えながら夜道を歩いていたと思う。

そして、直接会わなくなって、LINEで話すようになってからも、その人は丁寧だった。
まず文章が「お元気ですか。今日は夏らしい、いい天気ですね。」から始まる。
僕が体調を崩したことを知れば、「元気になって欲しくて」と、駅前のオルガン演奏を送ってきてくれた。
両親にそのことを伝えると、「老夫婦の会話?」と言われた。

僕にとって同世代の男と言うのは、渡した手紙を破って捨てるとか、なんだかよく分からない一線を引くとか、とりあえず「付き合ってるの?」と絡んできたりとか、悪口嫌味暴行をしてくる、話が通じない人間と思えない人間だった。
ことあるごとに人を傷つけようとする、人に対して、ただ「その人」として接することのできない、そういう人たちだった。
だから、とにかく驚いた。
この人、ぜったい手紙破らないし、言葉で話せて、掃除を一緒にする人だと思った。

僕が、自分の体質について長々と書いたものに目を通して、同じくらい長い文で「何も気にすることはない」と言ってくれる人だった。
これからも仲良くして欲しいと、言ってくれる人だった。

素敵な人だ。
本当に、大切にしてくれると思う。
当たり前に。

だけど、そんな中で、初めから、なにか、違和感があった。
「足元気をつけてください」
と、電車を降りる時逐一声をかけてくれることとか、危ないからと車道側を歩いてくれることとか、これを僕は、どう見たらいいんだろう、と思ってしまった。
その人のお母さんに、夜が遅くなった時、家まで送ってもらったことがあった。
その時、自分でドアを開けて「失礼します」と入ろうとしたら、お母さんに「自分でドアを開けさせてごめんね!」と謝られた。

僕は思ってしまった。
電車を降りる時、足を踏み外すくらい、なにも見えてないと思われているのだろうか。
車道側を歩いていることはそんなに危険が及ぶことなの?
その危険にその人が晒されて、僕が助かったら、それを僕は喜ぶのだろうか。
え、僕は、自動車のドアも開けられないほど非力な人間なんでしょうか。
そんなに何もできないように見えますか?
なにもできない人でいなきゃいけないですか?

めちゃくちゃ斜に構えた見方だってことはわかってる。
単純に、丁寧にしてくれてるのも、分かってる。
だけど、「人として」丁寧に、リスペクトを感じる接し方をされるのと、足元を気にされるのは、違うのだ。
ドアの開け閉めを気にされるのは、お先にどうぞとされるのは、毎回毎回、率先して全部お金を払われるのは、「あなた、レディですよね?」っていう、そういう接し方なんだよ。
あなたは女の人だからっていう、そういう言葉なんだ。

背が低い自分に対して、高いところにあるものを、背が高い人が取ってくれる。
これは、ありがたいね。
素敵だと思う。
もともとある個人個人の差に対して、自分に身についているものを自分のものだと思ってない人はとくに。


友だちにさ、足元気にして欲しくないんだよ。
丁寧にしてくれるのも、大切にしてくれるのも、嬉しいよ。
会いたいと言ってくれるのも嬉しい。
誰かに会いたいと思ってもらえるような自分なんだって嬉しくなるよ。
その丁寧にさ、女の人って立場、いるかな?
大切にさ、女って、なきゃいけない?
ただ、人として、そのまま、丁寧にし合うことはできないのだろうか。


ジェーン・スーさんの生活は踊るというラジオ番組のある質問で、「女子校を出てる人と共学を出てる人の違いはなんですか」というものがあった。
それに対してスーさんは、「ただの人間か、男と女か」だと言った。
女子校にいる間はただのその人だ、と。
わざわざ「女」だと意識させられない場なのだと。

男と女ってそんな必要なのだろうか。
上とか下とかなんなのだろうか。
ただの人として見てもらいたいのは、そんなに難しいのか。

割り勘じゃだめなの?
それとも、マナーだからそうしないことの方が失礼にあたるのだろうか。

でも僕は嫌だったな。
友だちに、お金出されるの。

なんかさ、それさ、僕が僕だったらそうじゃないのかなとか考えちゃうよ。
その人にとって女の人じゃなかったら、どんな扱いなんだろう。

何度も歩いた夜道を危ないからと送ってもらいながら、そんなことを考えていたよ。

僕にとって、「ジェンダー観」というのは、思った以上に人を見る時気にしている、大切なことらしかった。
どんなに大切にしてくれるいい人でも、なにか引っかかり続けるようだった。
それぐらい大切なことだった。
けどこの大切を、どう伝えたら分かってくれるのだろうか。
一見無いみたいに見えるこの「性差」への違和感を、どうしたら伝えられるのだろうか。

男も辛いし女も辛いし、男でも女でもない人も辛い。
わざわざ、立場に分けなくてもみんな辛い。
だけど、あまりにも見過ごされてきた「立場」の苦しみがある。
あなたは辛くないのだろうと言っているのではなく、あなたも見過ごしてきた苦しみを見てくれと言っているんだ。
僕が見過ごしているように。


わからなくていい。
お互い理解なんてそうし合えないものだ。
それぞれに、蔓延る苦しさがあるし、それはその人だけにあやふやで鮮明だから。
だけど、それと、「受け取らない」のは違う。
話を聞かないことは、全然違うことなんだ。
そもそも完全に理解できると思って人の話なんか聞かないでしょ。
理解できるところまで話を聞こうと思うから聞くんだよ。
ハイハイ悪かったね、そんな怒る話?みたいに謝るのも違う。
僕は自分が辛い話をしてるんじゃなくて、自分の大切なものの話をしてる。
それが「大切」なんだって、分かって欲しい話をしてるんだよ。
あなたの当たり前の感覚に蔑ろにされる僕の大切なものがあるって、伝えて受け取って欲しいから言ってる。
怒ってるんじゃなくてね。
だから、謝るのは、軽んじるのと同じことなんだ。


そう、彼は、たくさん謝ってくれそうなんだよな。
たくさん謝って、次から会う時にどうしたらいいのか分からないって、そういう顔をしそうなんだよ。




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