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異なるあなた

朝起きて、下に行く。
リビングに母と父と一歳七ヵ月になる弟がいる。
僕はその日気分が良くて、それは朝光が目に入ったからか、昨日食べた晩御飯が上手く胃に運ばれたからか、いずれにせよ、意気揚々とあいさつをする。
しかし、母は気分が悪そうだ。
疲れた声で、「あぁ、」と吐息混じりにこぼす母を見て、僕は唐突に、
「この人と僕が考えていることは同じじゃないんだ」と思う。

不思議で、でもそうであること。
僕と母は違う人間であり、考えること感じること、見えること発する言葉、色々なことが「同じ」じゃない。

なのに何故か、僕は「自分が気分が良いのだから相手も気分が良いだろう」というふうに考えた。

これは、あれに似ている。
「自分ができるのだから相手もできるだろう」
とか、
「自分がやりたいことはみんなやりたいんだろう」
という、謎の感覚。

僕は小学生の頃、ピアノを習っている友達が、僕の知っているピアニストを知らないことが不可解でたまらなかったことがある。
それが不可解なことだと感じたのは、彼女と僕は同じ世界にいるのだから、同じ学校へ通っているのだから、同じ地域に住んでいるのだから、見えてるものだって同じなんだろう、と思っていたからなのか、ピアノを習っていたら僕の知っているピアニストは知っているはずだ、という押し付けがましい気持ちがあったからなのか、或いは、僕の中の「ピアノ」にまつわる世界ではそのピアニストの存在はとても大きく、つまり当時の僕にとってピアノ界で超有名な人であるピアニストを知らない「ピアノを習っている彼女」がよく分からなかったのか、とにかく不可解だったということは覚えている。

そんなふうに、僕は勝手に相手と自分は同じだと思いがちになる。

人と人は異なる人間である、ということをようやく理解し始めたのは、中学生になってからだった。
それまで僕は、それなりに長い時間、「なぜ僕は気分が良いのに彼は気分が悪いのか」や、「なぜ僕は知っているのにあの子は知らないのか」について悶々としていた。

自分と相手が異なる人間であることを意識するのは大切なことだと僕は思う。
相手には相手の苦しみがあるのだと思えたり、相手には相手の見てきた世界や感じてきたことや、今感じることがあるのだとすんなり納得することができたりする。
だから、人が不機嫌であったりしても、「なんなんだこいつ!」と怒る前に、その人のしたであろう行動を遡って考えてみたり、あったかもしれない不快に感じる出来事を想像してみたり、その人を観察したり、一旦距離を置いたりと、少し離れてあなたと私を見ることができる、ときもあるのではないか。

これは僕の経験則だけど。

僕にもあなたにも分からないあの人は困難で、あの人にとったら僕はとても困難なのだろうけど、困難だから同じじゃないから、生きていられる気もする。
僕を支えてくれた人を思い浮かべると、あの人があの日、きっと僕を考えてくれていたから、僕は立っていられたのだと思うから。

考えられる時は、人のことやこの場所のことを考えていたい。

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