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私は異性愛者に理解がない

タイトルはちょっとキャッチーなほうがいいかな、と思ったのでこういう題目でスタートしていますが、最初に言っておきますと、 この連休中に東京レインボープライドというイベントをやっています、というお話です。

これは本当の話で、私はどうしてもフルーツが食べられない。アレルギーということではなく、単にとても苦手——というと安全圏に逃げた言い方のような気もするので、はっきり言ってしまえば嫌いである。理由はうまく言えないが、まず「甘酸っぱい」というのがあまりよろしくない。しゃりしゃりとかプチプチとかいう食感がそれに付随してくるとなおのことだめである。よってできれば避けて通りたいし、私がフルーツをダメと知らない方からご馳走していただいた場合なんかは本当に死にそうな顔で食べる(ダメすぎて作り笑いさえできない、申し訳ない)。
またこれも本当の話で、あんこの類、とくにおはぎがどうしてもダメだという友達がいる。どうも、ご飯と甘いもの、という抱き合わせが受け入れ難いらしい。大概のものは食べられるその友達だが、上司にもらってしまって断れなかった時には半べそで食べたとのこと(それでも食べきれなかったとか)。

こんな表題で始まっているのでお察しのこととは思うが、セクシュアリティの話をしようとしている。私は性的指向——つまり、男が好きか女が好きか、といった類の話——をはじめとする性的なもろもろに対する認識について、このくらいの感覚だろうと思っている。わたしはおはぎが好きだし、友達はフルーツが好きだ。そして私はフルーツを好きになれないし、フルーツの好きな人の気持ちもわかってあげられない(なぜならフルーツが嫌いだからだ)。また、おはぎが嫌いな人の気持ちも、多分十分にはわかってあげられない(なぜならおはぎが好きだからだ)。だからといって、それは私とその友達とが人間的に尊重しあうことができない、ということを、(当然のことながら)意味しない。あなたにはそういう好き嫌いがあるのね、と確認しあうのみだし、なんなら例えば、友達がおはぎを思いがけずもらってしまったときにそれ食べようか、と言い出すこともできるし、逆に頼んだパフェにサクランボが乗っかっていたときには、その友達にこれ食べてくれないか、とお願いすることもできる。
あなたが好きな食べ物を嫌いだという人がいたら、まあ少しがっかりするかもしれないけれども、それでもって相手のことをまったく嫌いになってしまうって、あるだろうか?また、あなたが嫌いな食べ物を好きな人がいたとして、そりゃ多少は溝を感じるかもしれないけれど、あなたはその人のことを間違っている!おかしい!と糾弾するだろうか?
まあ、たまに「こんなに美味しいものが食べられないなんて…」と的外れなことを言ってくる人もいるし、ときどきは手を凝らしなんとかして私にフルーツを食べさせようとする人も現れるかもしれないけれど、そう言う人は「的外れな人だなあ」と思われるに過ぎないだろう。
その程度の話なんじゃないかなあ、と思うんである。

と、いう議論は実は、今改めて言うほどのことでもないように思う。多分なん昔か前には「フルーツが食べられないなんて…」と白い目で見てはばからず、あるいはあざ笑うような人がだいぶ多くいたと思うし、あまつさえ「本当は好きなはず!」とコンポートやらジャムやらを押し付ける人もいたのだろうけれど、おそらく現代において、そういったことをあからさまにやる人というのは(幸いにも)多くは無くなってきている気がする(まあ、あからさまじゃない方法でやる人というのはまだまだとても多いのだけれど、そして本人はそうしていることにすら気づかなかったりするのだけれど、それは今回はとりあえず置いておく)。
同性愛者はいる。そしてそうであることを理由として誰かを差別するのは不当なことである。
これはとりあえず、割と当たり前の現代的感覚として膾炙しているように思われる。

もう1ヶ月ほど前のものになってしまって恐縮なのだが、こんな記事を読んだ。
LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」
結構話題になっていたので、読んだ人もいるのではないだろうか。さて、これを読んでLGBT当事者のはしくれというか、いわゆる性自認=解剖学的性の異性愛者「ではない」私が思ったこと。

「わかる〜〜〜〜〜」

わかる。いや「わかる」じゃないでしょ、といったところかもしれないが、この人の気持ち、とてもわかってしまう。よくよく読むとこの人はとても誠実だ。上に言ったような現代的感覚は念頭にあった上で、それでも気持ち悪いんですもんね。理解しようという最大限の努力をした上でだめなのだ。わかるよ。

だって私異性愛者気持ち悪いですもん。

急いで付け加えると、もちろん今まで知り合った人たちは大多数が(そうと思われる事例も含めて)異性愛者で、生まれた身体の性を自らの性としている人である。もっとも身近な他者でいえば両親だってそうだ。そして彼らの多くは、ああ、知り合ってよかったなあ、と思えるようなすばらしい人たちである。もちろん気持ち悪くなんてない。ただこれ以上保身に走っても仕方ないので、フォローはこのくらいに。

私は異性愛者に理解がない。それは上の記事でインタビューに答えている方が同性愛者を理解できないのと同じような類のものだと思う。
これでもいっときよりはだいぶましになったのだが、今から10年くらい前までは本当にひどかった。とにかく異性愛的なもの全てが生理的に受け付けられない。なのでたとえば、電車に乗ると地獄である。異性愛的欲望にまみれた週刊誌の中吊りが心底イラつく。表紙のグラドル笑ってんじゃねーぞ男に媚びんなお前。女性向けファッション誌は、それはそれで二言目にはモテだのラブだのを引っ張り出してくるのでいただけない。恋愛ドラマの広告もたいへん鬱陶しい。ドラマといえば大方の大衆娯楽はダメだ。おいそこの少年漫画、部活で全国制覇するのに女との惚れた腫れたって必要か?(でもヒロインは好きだ、なぜなら女性は好きなので)。このドラマ、男女のバディもので終わってよかったのになんで最後に愛の告白がくるんだ?全く意味がわからない。ていうか気持ち悪い。
シャドーボクシングだけでこの具合であるので、罷り間違って駅の構内でおてて繋いで歩いているカップルなどを見てしまうとだめだ。頭に血がのぼる。頼むから公衆の面前で、というか私の前でやらないでほしい、世が世ならすぐさま切り捨て御免ですよ。ほんとに。というかなんなら、男と女は一緒に歩かないでくれ。たとえあなた方の関係がパーフェクトにビジネスだったとしても余計なものを連想して吐き気するから。ちなみに女性が一人で歩いているとまずレズビアンだと思ってしまう。異性愛者に理解がないので。

どんどん言葉が汚くなるのでこのあたりで打ち止めにしておくとして、時期によって波はあるけれども、だいたいこんな調子で生きている。
けれどもちろん、そう言って歩いたりはしないし、そうとう親しい友人にすら言いはしない。なんならネット上でもここまでのことは初めて言葉にした。や、何度かほのめかしてはいるけれども。
冒頭のたとえに戻ろう。私はいちご牛乳が好きである。でも飲食店で頼むと、往々にして果肉が入っている。すると憤りを感じる。できれば避けて通りたいほどフルーツが苦手だからだ。お金を払ってまで買ってしまうなどとんでもないことである。
だが私は同時に理解してもいる。多分いちご牛乳を頼む多くの人は、果肉が入っているとプレミアム感があって嬉しいのだろう。だからこの店も果肉入りのいちご牛乳を提供していて、それが受け入れられ、利益が発生している。市場とはそういうものだ。
なので私は、おいこのいちご牛乳果肉入ってんじゃねーかふざけんな、とクレームを入れたりはしない。勿体無いので顔をしかめながら飲むのみである。いちご牛乳に果肉が入っていると嬉しいと思う人たちのことは理解してあげられない。でも、お店で出てくるいちご牛乳に果肉が入っていることの道理は理解できる。そしてその道理は間違ったものでもなんでもないのだ。

うまくまとまっているかわからないけれど、そういうことなんではないのかな、と思う。

来たる5月6日(日)、カレンダー通りだと連休の最終日に、東京レインボープライドというイベントのパレードがある。
レインボーは性的多様性の象徴だ。そしてプライド、というのは、ゲイだから、レズビアンだから、あるいはトランスジェンダー——「おかま」「おなべ」だからといって縮こまることなく、自分の性的なあり方に何人も誇りを持とう、という意味合いである。
この「何人も」というのはとても重要だ。公式サイトのトップページの文章を読んでもらえればわかると思うのだが、「少数者」が「多数者」に向かって「権利よこせ」と拳を振りかざす場ではない。そうではなくて、誰しもが愛するものを愛せる世の中のほうがいいんじゃないですか、という場なのである。
私も行ってこようと思っている。「いちご牛乳から果肉を取り除け!」ではなく、「私は私の好きなものが好きだし、あなたはあなたの好きなものが好き。たまに食い違いで寂しくなることがあっても、互いに好きなものを好きでありつづけましょう。そして好きなものを好きであると言える世の中になりますように」と言うために。

※ちなみに屋台や電飾付きのフロートが出るので、もし五月晴れとなってしまうと相当暑くなると思われます。もし興味があるという方がいらっしゃいましたら体調管理には十分お気をつけて(以前は真夏にやっていて、相当やばかったらしいです)。

お小遣いください。アイス買います。