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【感想文】ある作品の読書体験について

ぶっちゃけてしまうと、わたしは基本的に小説の筋書きにあまり興味がない(もちろん例外はある。ニンジャスレイヤーがその好例で、あれは物語がどういう展開を迎えるのかを楽しみに読んでいる)。
ということでわたしが小説のたぐいを読むときに気にかけているのは、もっぱら文章表現の美しさや巧みさ、そしてそこから得られる快さである。

読書というのは読み・解釈するという能動的な行為であると同時に、書き手に与えられるものを享受するという点で受動的なものでもある。だから「読書体験」という言葉が成り立つ。この”体験”をいかなるものにするかは、ひとえに書き手の能力にかかっている。

そのような観点から、今日はある作品(群)を紹介してみようと思う。
ズールー氏
がnoteで発表している<風の街>シリーズである。

大前提として、小説にしろエッセイにしろ、まとまった文章というのは読みやすくなければならない。読者が最後までつまずくことなく読み通せる文章でなくてはならない。これは簡単に見えてかなりの高等技術で、いま書いているわたしも難儀している。なめらかに読める文章を書くというのは当たり前にできることではないのだ。語彙の過剰な重複はないか。一文が長すぎはしないか。接続詞は適切か。そもそも文が日本語として正しいつながりを保っているか……チェックする項目はとても多い。

その点を本作は軽くクリアしている。内容についてはのちに触れるとして、読むにあたっては全く障碍を感じさせない。これだけでもかなりすぐれた作品と言えるだろう。

 男には死が近づいていた。<風の街>からの放逐より一ヶ月も経ってはいなかったが、死の荒野とそこに吹く風は、かつてはたくましかった男の身体を着実に蝕んでいた。

引かせてもらったのはシリーズで最初に発表された「スケッチ1 -死の荒野」の冒頭部である。

非常にリズミカル、かつ単語のチョイスによどみがない。長文と短文のコントラストも印象的である。このリズムが息切れせず最後まで続く。とても気持ちがよい。
言葉のリズムでいえば、私のお気に入りは本編である「<風の街>と<甲冑の男達>」の書き出しだ。

 <ジャケット>は落下した。落下した。身をよじり、手足をひねり、宙に踊る。<ジャケット>は落下し続けた。

同じ語彙を繰り返し用いるのは文章表現においてほんらい禁忌であるが、この一節はそれを巧みに逆手にとっている。「落下した」を重ねることで、<ジャケット>の落下がいかに深いものであったかが直感的に理解できる。

また、読書体験をかたちづくる上で重要なのは文体——すなわち語彙の選択、一文の長短などである。これが作品全体のアトモスフィアに及ぼす影響は大きい。文体こそが世界観をつくると言ってもいい。
本作の文体は非常にドライで淡々としている。このことがポストアポカリプス世界の殺伐とした空気感を感じさせる。

だが淡々としすぎていれば、読者に「抑揚がなくつまらない」という印象を与えかねない。しかしその点を克服する工夫が、本作には随所随所にちりばめられている。ふたたび「スケッチ1」と、「<風の街>と<甲冑の男達>」から一節を引用しよう。

 一体どこで間違えたのだろう。結局愚かな自分が騙されただけなのだろうか。ただ男は<芯>が見たかったのだ。<風の街>のどこからでも見える、<風の街>の中心にある最も高い塔。そこからすべての風が吹き、またそこにはかつて滅んだ文明の残したすべてがあると言う。高い金を払いもぐら達の手引を受け進んだ地下深くの道は、<風の街>の外、死の荒野だった。振り返れば地下道につながる強化扉は閉じていた。

 <ジャケット>は警官を見ることもなく、また返事も返さなかった。お前ら困ればいい、困ればいい。知ったことでなし。防風外骨格を来たその警官は、集まってきていた応援へ諦めた顔で手振りをすると、彼らとともにとぼとぼと散っていった。

基本的に本作は三人称で書かれている。先述のような乾いた表現が可能なのはそれがゆえでもある。そしてそれが故に退屈であると感じさせる危うさを孕んでいるというのも先に述べたとおりだ。

それを避けるために用いられているのが、上に挙げたような視点のねじれである。
「一体どこで間違えたのだろう。結局愚かな自分が騙されただけなのだろうか。」「お前ら困ればいい、困ればいい。知ったことでなし。」この部分はあきらかに「男」あるいは<ジャケット>のモノローグである。これらは読者を物語に引き込みつづけるために凝らされた巧妙な工夫であり、その上それをこれを使いすぎないという采配の妙がある。

加えて文章表現において重要なのは——そしてこれがもっとも難しいとわたしは思っているのだが——「情報の開示」である。
いちばん陥りやすいのは、作者が物語の世界や背景を全て掌握しているがゆえに、初読者にとって必要な情報を示すことを怠っているのに気づかないということである。それをすると読者は混乱してしまうし、結果読むことから離れてしまう。初読者に情況を正しく理解してもらうために必要な情報を描写すべし。この基本が本作において十全にまもられているということはここまでの引用で理解できよう。
しかしもっと困難なのは、「情報を開示しない」ということである。最初に全貌をあきらかにしてしまっておいて、その後そこで起こった出来事を描写していくことは(上の条件を満たしていれば)容易い。だがそれでは読者を惹きこむことはできない。極端に言えば、はじめからタネがわかっている手品がつまらないのと同じである。
この問題についてのソリューションが秀逸である。情報の開示の度合いが巧いのだ。<背広組>、<ジャケット>、<甲冑の男達>、<協定>、<悪魔の名刺>……これらの固有名詞は我々にとって既知の単語で構成されているにすぎないが、それが具体的に何であるかがとりあえず不明のまま物語が進む。また、「百九十二丁目」という地名が出てきたとき、読者はこの世界の構造が我々に慣れ親しんだものと違うことを理解し、しかしその全容を把握することはできない。
本作には数々の「謎」が仕掛けられている。物語が人を魅了するのは、こうした「謎」の存在がゆえだ。「謎」を追いかけさせること、「謎」が先行していることで、物語は「みずからを読め、読み続けろ」とわれわれに命令する。そしてわれわれはそれに従わざるを得ない、というある種の焦りにかられる。結果としてその物語は魅力的になるのだ。

ここまで述べてきたようなさまざまの技巧が、<風の街>シリーズを面白いものにしている。現在のところ未完の本作だが、多くの読者が続きを期待していることだろう。

そしてなんと本作の書籍版が、来たる5月6日のコミティアで頒布されるというのだ。

こりゃコトだ。せにゃ!

…と書いてきたが、作者のズールー氏が誕生日を迎えられたとのことで、この感想文は実は彼に対するわたしからの個人的な祝詞である。おめでとうございます。DJ行為配信とか実はこっそり時折聞かせていただいております。今年も佳い一年になりますようお祈り申し上げております。

追伸ついでの公開処刑:ところどころ漢数字の「二」がカタカナの「ニ」になっていて惜しいので是非とも書籍化の際には修正していただきたいところです。

お小遣いください。アイス買います。