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 そもそも「ひとりっこ」という生き物は、親の愛情を(時には憎悪を)文字通り一身に引き受け、独善的に育つのである。対して、お互いを思いやることのできる「きょうだい」愛のなんと素晴らしきことか。
 ゆえに「ひとりっこ」と「きょうだい」は精神性の面において、全く別の種族であると、俺は「我が妹」と出会ったあの日から真剣に考え始めている。ことの顛末は次のようなものだ。
 
 あてどもなく午後の道端をぶらぶらしていると、俺のすぐ隣をあどけない表情をした女の子が歩いていることに気が付いた。そちらへ視線を向けると、少女は見つめ返すばかりにとどまらず、愛らしい笑みをこちらに向けてきたのである。
 俺は思わず顔を背けてしまった。彼女の純粋さにはなんの落ち度もない。現代社会の不寛容さの問題だった。俺は内心で焦らざるをえなかったのだ。彼女の可憐さと、二人の間の年齢差に。
 ちらりと横目で、正確には左下斜目で見てみれば、少女と俺は、一回り、いや二回りは、年が開いているように思えた。その事実は、善良な一般市民に通報を促すための大義名分にほかならない。だがしかし、動揺を感じ取ったのか、少女は俺の方を見てこう言ったのだ。 
「どうしたの、おにいちゃん?」
 瞬間。わずか二言。手がかりは全てそろい、記憶の密室は瓦解した。後には動悸だけが残された。
 こうして目の前に妹がいるにもかかわらず、俺は自分のことを、ひとりっこだと思い込んでいる狂信者だ。だがそれは、とある勘違いが生み出した手違いにすぎない。
 俺はひとりっことして生まれ、孤独な幼少期を送りながらも、幾分か経ってから、きょうだいができたのだ。まるでイモムシがさなぎから羽化し、美しき蝶と呼ばれるように、兄という称号は後天的なものにほかならない。
 全てを理解すると、彼女を、少女を、いや我が妹を愛しむ気持ちが、わき上がってくる。真実の愛を理解し、その純粋さを知ったのだ。両親には感謝せねばなるまい。帰ったら親孝行しよう。そして、ひとりっこ代表として独占してきた自己愛を、これからは我が妹に捧げるのだ。
 おねだりでもされようものなら、肝臓の一つや二つはなんてことなかった。全財産を賭けたポーカーのテーブルにでも喜んで座っただろうし、夏休みの宿題だって、最終日に全てやってあげただろう。もちろん、自由研究のテーマは、妹のかわいらしさについてだ。とめどない妄想が走馬燈のように頭の中を駆け抜けていく。
 だがそれも、わずか数秒で終わりを告げた。
「ばいばい、おにいちゃん。わたし、お家に帰るね」
 そう言うと、我が妹は、我が家とは反対方向の道を指さした。当然ながら発言内容の意味が分からなかった。両親の不貞を疑うことも辞さない覚悟だった。俺は妹を取り戻すためなら鬼にでも悪魔でも、誘拐犯にでもなっただろう。それでも努めて冷静なふりをしながら、愕然としつつ俺は尋ねた。
「ええと、ごめん。君は俺の妹なんだっけ。いや、俺の妹なんだよな」
「おにいちゃん、どうしたの。私はおにいちゃんの妹じゃなくて姪だよ」
 うん、そうだよな。安心した。
 やっぱり俺には、きょうだいなんていない。

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