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煩悩

 二日酔いが悪夢を見せつけるよりも早く、青年はすでに夢から醒めきっていた。携帯のアラームが、部屋の中をせわしなく駆け巡るが、厚手のカーテンが邪魔をして、彼を光から遠ざけていた。
「他に好きな人ができたの」
 昨晩の彼女の言葉を思い出して、頭がズキズキしはじめる。彼女の告白は唐突だった。半年前に青年からした告白は、すっかり上書き保存されてしまったようで、もはや彼女の心には欠片も残っていなかった。
 青年は起き上がる気力もわかず、もう一度酒の力を借りようと、枕元に腕を伸ばしたが、そこで一冊の本が手に触れた。なぜこんなものがあるのかと、薄暗い中で記憶に焦点を当てたが、ぼんやりとした頭では思い出すことができなかった。おそらくは先輩から譲り受けた、大学の教材の中にまぎれこんでいたのだろう。
 宗教学の基礎について書かれたその本を、青年は意味もなくパラパラとめくっていたが、彼の目にある言葉が飛び込んできた。
『この世は苦しみに満ちている』
 まさに自分の現在の心境を単的に表していた。思わず続きの文章を読んでみると、ありがたいことに、その解決法も乗っていた。
『苦しみの原因は、欲望や執着から生まれる煩悩である。煩悩を滅することで、安らかな涅槃の境地に至る』
 その日から、青年は酒を飲まなくなった。
 数日もすると、青年は彼女について悩んでいたことが、いかに意味のないことだったのかを実感していた。人がアルコールに依存するように、自分は彼女に酔いしれていたのだ。これからは執着を捨て、自分のために生きるのだと決心する。
 タバコをやめ、SNSをやめ、うそをつくことをやめた。何かに依存してはいけないのだ。
 甘いものを食べることもやめた。砂糖にも中毒性があるらしい。油物を食べることもやめた。油分にも中毒性があるらしい。そういった情報を調べるために使っていた電子機器を捨てた。インターネットの中にも中毒は潜んでいる。
 食事をとることもやめた。そもそも人は食事をしないといけないという固定観念はどこから生まれたのだろうか。全ては思い込みではないのか。最初の日こそ空腹にうちのめされそうになったが、三日三晩が経つころには、腹が空かなくなっていた。代わりに眠る時間が増えた。ああだが、睡眠に依存するわけにもいかない。
 やがて青年は自分自身が、眠っているかも、起きているかも分からなくなっていた。もはやあらゆる感覚は失われていたが、ただ心地よさだけが全身を満たしていた。
 青年は呼吸をしなくなった。酸素に依存することをやめたのだ。しばらくすると、体の中に流れていた一定のリズムがゆるやかに途絶えた。もはや生への執着などなかった

「ひどい腐敗臭ですね」
 玄関を開けた2人の警官のうち、若い方が鼻をつまみながら言った。
「ここ数週間、家族や知人にも連絡がなかったらしい」
「誰かに殺されたんでしょうか」
「さあね。人間いろいろ悩みってもんがあるもんだ」
 年配の警官が布団をちらりと持ち上げ、手を合わせて拝む。
「ホトケさんには見えねえがな」

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