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文章を通した交流についての雑記。

近頃、文章を通した交流について考えている。

noteのアクティブユーザーが増えている、という話は、先ごろの六周年に合わせた記事などで拝見している。その理由は、やはりまとまった文章を通した交流ができることであろう。

SNSは生活の切り取りだ。noteにだってそういった面はもちろんある。だけれども、これは私感だが、文章は嘘をつけない。

もちろん文章にもよりけりだ。でも、やっぱり自分のように日々文章を書いてnoteにアップロードしているのようなnoterの人たちは、とても強く自分の内側を明け渡しているように感じる。

それは結局、書き続けるためには、己と文章との間にある溝を狭くしなくてはいけないからだろう。
偽りの己で書き続けることは、とても難しいことだ。良いとか悪いではなく、着飾り、演じることは、どんな場面であれ非常に疲れる。ことnoteのような、文章を主体とする場合、それは色濃く表れるのではないだろうか。

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文章を通した交流というものは、非常に奇妙な気がする。

匿名性の高いSNSであるはずなのに、通常顔を合わせて話すような知り合いよりも、より深いところまでを語らいあうことがある。自分の人生の生々しい傷跡なんて、生きていて他人と共有する機会はそう多くはない。よほど大切な友人や、あるいは愛する人、家族。柔らかい部分に触れあえる関係性になるまでには、長い時間を要する。

しかし、文章を通した交流はその距離を時に一足飛びに越えてくる。

内面から入る交流、というのは、本当に奇妙なものだなと思うのだ。

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私はこうしてnoteの隅っこで、毎日何かしらを書いている。うっかりクリックしてしまった誰かが、ぼんやりと読んだり、あるいは間違ったと思ってすぐにブラウザバックしたり。本当に些細なワンタッチ、ワンクリックで、私のとても深い内側までアクセスできてしまう。その危うさみたいなものを、感じることもある。つまり、批判や悪意に晒されやすいと言うことだ。幸い、人生でそのような言われない匿名の悪意に晒された経験などないが。

そういった危険性を孕んでいながら、人は自分の柔らかい部分を語らずにはいられない。これは、もう本当に随分昔からのことで、人間の根源的な欲求なのだろうな。

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べつにだからなんだ、みたいなことをつらつらと書いてしまった。
何が言いたいわけでもなくて、もしかしたら少し人とおしゃべりをしたいのかもしれない。

うーん、でも、人と話すとなるとテンションをあげたり取り繕ったりして疲れるかもしれないし、と思うと、zoom会議なんかに参加するのも躊躇われてしまう。だからお前は根暗なんだぞ。

本当に自分は一人が好きなんだなと、最近は特に思う。同時に、本当に一人になってしまったら寂しくて悲しくてやりきれないんだろうな、とも思う。人と話したい気持ちと、一人で思案に耽りたい気持ちが、どっちつかずでふわふわしているのは、近頃の世相のせいだろうか。


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