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遠くの誰かへ会いに行く

本を買っては積む日々が続いている。

純粋に楽しむための読書の回数が減ったのは、大学に入ってからだ。それまでは、ミステリーやSF、歴史小説からライトノベルのようなものまで、割と幅広く読んでいた。読書家を自称するほどではないが、読むことは三日坊主な自分が続けていた唯一のものだと言ってもいい。

しかし、大学に入ってからは、読書は同時に勉学を伴うものとなった。

古典や論文は、当然読み物としても十分面白く、楽しい。だけれども時には、純粋なエンタメとして、学びを排除した読書に耽りたいと思う時もある。

エッセイを読み始めたのは、ちょうどそんな折だった。

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幼少の頃、ファンタジー小説が大好きだった。空想の世界はどこまでも広く、魅力的で、鮮やかだ。現実社会を舞台にした物語が大人に受けていることが、いまいち理解できなかった。エッセイなど、言わずもがな。他人のごく普通の生活の、何が楽しいのか。小中学生のころなどは、本当にそう思っていたのだ。

なぜエッセイを手に取ったのか、いまではもう覚えていない。だけれども、物語とはまた違う、人の柔らかい部分に触れるような書きぶりに、どんどんページが進んでいった。どんでんがえしがあるわけでも、隠された秘密があるわけでも、魔法が出てくるわけでも、殺人事件が起こるわけでもない。それでも、私の人生で見たことない景色へ、とてつもない温度と湿度を持って連れて行ってくれる。エッセイには、そういう力があると思う。

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noteをはじめて、書くことと読むこと、それから交流することについて、考えることが多くなった。

私は、正直あまり読むのが得意ではない。
読書をする筋力が衰えているのか、紙の上の文字を一歩ずつ追うことがむずかしくなっている。自分の心身的な不調ももちろんあるが、近頃ではSNSの短いやり取りやインパクトのある言葉ばかりが目に付いて、その短さに慣れきっているのだろう。よくない傾向だ。

だけれども、noteというSNSは、どうやらその傾向とは逆に進んでいるようだ。まとまった文章交流というものは、不思議な感覚を与えてくれる。

遠くの誰かに会いに行くような、そういう感覚だ。

切り取られトリミングされたフォトジェニックな写真じゃない。インパクトがあり、目につき、何万とRTされる言葉じゃない。

それでも、確かにそこで息をしていて、温度がある、会ったこともない誰か。

年齢も住む場所も生きてきた環境も違う。セロリが好きだったり嫌いだったりするかもしれない。

そんな誰かに会いに行くような、そういう感覚。

書くことは不思議な行為だと思っている。
同時に、きっと読むことも不思議な行為に違いない。

旅行に行けない日々が続くが、文章の上でなら、海を越え、山を越え、遠くの誰かへ会いに行ける。

もっとたくさんの人に、会ってみたい。
そう思う、今日この頃だ。


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