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きちんと悲しむために。

「こんなの、癌に比べれば大したものじゃないよ。死ぬわけじゃないんだから、平気。すぐに元気になれるよ」

身体を壊して実家に戻った私に、最初に母が言った言葉だった。最寄り駅から実家までの車の中で、その言葉をかみしめながら、ただ悲しくて仕方がなかった。

  〇

母は昔から「もっと大変な人はいるから」と言う人だった。

別に、母だけじゃない。世の中の多くの人が、「私より苦しい人はいるから、こんなことでくじけちゃだめだ」「みんな苦しんでいるんだから」って思っている。私もそう思う時が、ある。だけど果たして、それって本当なんだろうか。そんなことを、思うんだ。

ご飯を残すと、「世界にご飯が食べられない子供が何人いるとおもうの?」なんて言われるのだ。だから、全部ちゃんと食べなさい、となる。それならどうして、食べられる分だけ作らないのだろう。食べられる以上に食べさせられるのだろう。

「恵まれた環境だから言えることだよね」なんて、思う時がある。きっと、思われている時もある。まったくもって、その通りだ。

ありがたいことに、五体満足で生きている。家族に大きな不幸もない。私の生活なんて、恵まれすぎているに違いないし、その通りだなと思うのだ。

でも、それって私が自分の悲しみを認めることと、なんの関係があるんだろう?

  〇

「癌になったときほど、辛くないよ」

心と身体を壊して実家に帰ってきた私に、母はそう言った。
わたしは、悲しくて仕方がなかった。

私の苦しさや辛さを、勝手に過小評価しないでくれ。おねがいだから、きちんと悲しませてくれ。

あの時ほど、つらくない。あれが乗り越えられたのだから、これくらいでくじけちゃいけない。

そうかな?そうかも。でも、そうじゃないかもしれないよ。

私は恵まれている。身体を壊しても身を寄せる家がある。少しの不和を抱えながらも、一緒に生活できる家族がいる。こうして文章を綴る時間を設けられる。その環境がある。

でも、だからって、私の身に起きた私の苦しみが、なかったことになんてならない。ならないよ。絶対に、ならない。

癌も、バセドウも、心を壊してしまうことも、全部全部、辛いんだ。そこに、上も下もないよ。

貴方が決めていいことじゃない。

わたしがきちんと、悲しまなきゃいけないことだよ。

それを怠って涙を流さないと、どうなるのか、知っている。
流さなかった涙は、なくなったりなんかしないんだ。心の中で、いつまでも淀み続ける。

そして時に、その淀みは言葉の刃となって誰かを刺すのだ。

「わたしは耐えたのに」「僕のときはもっとひどかったのに」
「そんなことで弱音を吐くな」
「その程度で苦しんでいちゃだめだ」

「みんな苦しんでいるんだから」

  〇

きちんと悲しむために、強くいなくてもいい時だって、きっとある。

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