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私にとっての『開かれた文章とはなにか』という問について。

自分の半生と離別したいと、ずっと思っていた。同時に、それは無理なのだと知っている。
だけれども、心は聞き分けの悪い子供のようで。いつまでも、もぞもぞと居心地が悪そうにもがいている。

  〇

『なにを書くべきか』について、近頃モヤモヤし続けている。そのモヤモヤを打開するきっかけをつかみたくて、ブリリアントブルーに応募した。番組でとりあげていただいた上に、ありがたいことに、仲さんがフィードバックまでくださった。
それでもなお、モヤモヤは続いていた。自分が何に引っ掛かっているのかが上手く掴めていないことが問題だ。

『開かれた文章を書くには』
私がブリリアントブルーの応募時に書いた一文。この曖昧な定義を、番組後にこうつぶやいた。

これについて、仲さんにいただいたフィードバックnoteはこちら。

とても多くの方に読まれて、それに対するnoterの皆さんの反応まで含めて、興味深く拝見させていただいた。
ただ、誤解を恐れず言うならば、仲さんの記事を拝読して私が一番に思ったのは『そりゃそうですよね』だった。
それから、『そうじゃないんだよな』と思った。つまり、自分が期待していたような答えではなかったと言うことだ。そもそも期待する答えがあるなら聞くなという話なのだが、自分の中の答えが明確にならないからあれこれと藻掻いてしまう。何卒、お許し願いたい。

フィードバックまでしていただいて『そうじゃない』って、何様だお前という感じで本当に申し訳ないです。でも、この『そうじゃない』から、自分のモヤモヤを手繰り寄せる糸口を掴めたような気がした。

  〇

『開かれた文章』とはなにか。自分が使った言葉のくせに、その定義をよく考えていなかった。正直に白状すると、ブリリアントブルーというディスカッション形式の番組の中で、この言葉への解像度を上げたいという気持ちもあったためである。
私にとっての『開かれた文章』について。あらためて考えて、まず思いつくのは先のつぶやきでも書いたような『一般化する文章』だ。これについて、仲さんはこう表現されている。

自分を通じて、それぞれが皆、小さいながらも普遍的なテーマに通じる個を表現している。
(中略)
薄皮をめくるように徐々に徐々に洗練されてくると、その物語がその人の生きる姿として描かれるまで昇華されるようになる。すると次のフェーズに移る。
物語は伝搬し、普遍的なテーマに行き着くのだ。
こうなると誰かが耳を傾けてくれるようになる。

個人的なことについて語るものは、いずれ普遍的なテーマへといきつく。
人はみな、生き、考え、脳みその中で言葉を捏ねている。誰だって自分の経験を言語化したいし、自分が形作れない感情を『読む』行為で認識することを求めている。

では、私の『そうじゃないんだよな』はどこから来てしまうのか。

答えを探しに、あれこれ考えていたある日、自分のパソコンのメモ帳にその言葉を見つけた。ツイッターのDMで誤送信するといけないから、メモ帳に下書きしていたものが残っていたのだ。
二月のはじめ『あなたのnote読みます』の企画で、まさしく仲さんに送ろうとしたDMの下書きだった。だけれども、結局送らなかった文章の残骸。

自分のバックボーンから、どうやって離脱するべきなのか。

メモ帳の最後の部分に、独り言のように書かれていた。

  〇

cakesコンテストで受賞したnoteは、自分の少し特殊な半生について書いたものだった。これは、私を構成する重要な要素で、アイデンティティで、傷であり、辛さであり、喜びでもあり。とにかくあらゆる感情が、私の半生には込められている。誰にとってもそうであるように、誰も持っていない私だけの人生。

ただ、自分がそのことばかり語ってしまうことを、私は心底恐れている。

自分が、自分のことしか語れないのかもしれない。その事実を。

人間は、誰だってそうだ。そう思いもする。人は自分以外の誰かにはなれなくて、全て想像でしかな語れない。だからこそ、己の半生の意味や意義や捉え方なんかを求めて、文章を読んだり綴ったりする。

遠回しな表現はやめる。
私は、自分が自分を特別だと思ってしまうことが怖いのだ。
それはつまり、病でない私には、なんの価値もないことを意味するから。

  〇

病と自分について、noteで既にいくつか記事にしているし、事あるごとに雑記で顔を出す。もしかして、くどいと感じる人がいるかもしれないし、うざいと感じる人がいるかもしれない。

私は、自分の持っている素材に対して、ある程度自覚的だ。つまり、『ネタ』になるということ。だけど同時に、傷を抉る行為でもあり、また同時に、書かずにはいられないテーマでもある。

あまりにも厄介だ。どうするべきか、それからどうしたいのか、正直分からない。

病について、どうしたって語ってしまう。
それは、私の人生のほとんど半分以上だから。上手くいかない身体も、コントロールできない感情も、病院から見えた絵にかいたような富士山も、となりのベットのお婆さんとその旦那さんが認知症だったことも。

どうしたって書いてしまう。その感情と同時に、これについて書きたくないという思いも、同じくらい抱えている。

たまたま不幸だったから、文章が書けた。たまたま特異な経験をしていたから、賞が取れた。
私でなくてもよかった、私である必要なんてなかった。
そういう思いが、今でもどこかにある。馬鹿らしいなんてこと、わかっているのだけれど。

  〇

『開かれた文章』を書きたい。
それは平たく言うと『個の話を一般化した文章』のことだ。

だけれども、もっとミクロに、この言葉を発した私の視点から言えば、『自分のバックボーンから離脱した文章を書きたい』となる。

私は、自分の経験をどう調理するべきか、今もまだずっと答えを見つけられずにいる。

  〇

『なにを書くべきなのか』、七月中ぼんやりとその問の前に座っていた。芽を出さないアボカドの種のように、語りかけても答えはない。

『バックボーンから離脱した文章は、どうすれば書けるのか』
恐らくここが、私が何を書きたいか、その問題に大きく影響する部分なのだろう。

自分の手の中に、病以外の材料がないのではないか。そのことが心底恐ろしい。自分から病を取ったら、何も残らないのではないか。そう思うほど、キーボードを打つ手は止まる。

私は、何を書くべきなんだろう。



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