夢中の足音。
『恋に落ちる音』がどんな音か。
そんな話題を目にしたのは、たしかツイッターで回ってきたRTだったはずだ。多くの人が、色々な言葉で恋に落ちる音を表現していた。曰く、『ガラスのグラスに小さな宝石を入れたときの、乾いたきれいなカランという音』。曰く、『グラスの中の氷が解けて、カランとなる澄んだ音』。曰く、『鈴の音』。曰く、『水に落ちたときのゴポゴポという音』。
それぞれがそれぞれの『恋の音』を表現するのを見ながら、自分の場合はどうだろうと、考えていた。
そもそも、恋とはなんだろうか。
恋をしたことがないと言えば嘘で、もちろん淡い胸のときめきや、心臓の焦げるような気持ちを抱いたこともある。しかし、これはあくまで持論だが、そういうのは一種の一時的脳のバグなのではないだろうか。心拍数があがり、体温が上がる。そういった過剰な反応はいつまでも続くものではなく、きっと長いパートナーを探す意味の『恋』において、初期のスリリングな恋心よりも、ぬるま湯につかるような愛のほうが、保温効果が高いのではなかろうか。
などと、ろくな恋愛経験がない私は思うのだ。別に恋愛をしなければ一人前なわけでもなく、さまざまな心の在り様があることは、近頃は広く認知されつつある。
つまり私の中で『恋』とは、『性欲および感情の抑制が効かない何かしらのバグ』という認識で、たとえ恋をしたと思ったとしても、少なくとも3カ月後には全ての熱は覚めているだろう、ということである。いや、知らんけどな、本当に恋愛経験が薄いので。
では、皆が思う『恋の音』とはなんだろう。自分の中で、この綺麗な音たちに似た感情を探る。
もっと、バグ的なものではなくて、継続的で、かつ爽やかな、そう、きっと心が躍る音だ。心が跳ねて、スキップしたくなるような、そういう足音。階段を駆け下りるときの、軽やかさ。
〇
ふと、大学生の頃、ゼミがあった水曜日を思い出す。
お昼ごはんの後の授業は皆眠そうだが、先生のお話はいつだって面白く、勉強になる。授業終わりに、そそくさと教室をあとにする先生の背中を追いかけて、先ごろ読んだ本の話や、今日の授業で取り上げた言葉のお話をする。そうすると、こういうものを読むと良いですよと、本を教えてくださる。なにか、気づきになるような言葉をおっしゃる。自分ひとりでは接続できなかった、知識の深いところまで潜っていける。
次の授業のご予定がある先生を長く引き留めることはできず、駐車場の近くまでご一緒して、今日はありがとうございましたと頭を下げて別れる。
水曜の午後はゼミの授業だけだ。そのあとはなにもない。今聞いた先生の話を忘れないように、反復しながら家へ帰る。次に読むべき本、覚えるべき言葉、考えるべき事。
高台にある学び舎からは、街が見渡せる。通学の山登りはそれなりにきついが、帰る足取りは軽やかだ。駅へ続く学生の多い表の坂道ではなく、古い校舎の影にある裏道を選ぶ。階段の上に立つと、下から吹き上げるようなさわやかな風が通った。
すうっと大きく息を吸う。胸が高鳴るのが分かる。まだまだ、深い知識の泉へと潜っていける。そのことへの、高揚感、興奮、期待、わくわく。じっとしていられないような、胸の高鳴り。血が全身にめぐるような、ときめき。
帰ったら、まずなにをしよう。本を読んで、レジュメを読み返して。翻刻もしなければ。学ぶべきことはたくさんあって、そこへ導いてくれる恩師もいる。
階段を駆け下りる自分の足音が、水曜の午後だけはいつもの数倍楽し気だった。
〇
もし、恋の音というものを自分が考えるなら、きっとあの足音だ。階段を駆け下りるときの音。映画『耳をすませば』の中で、主人公の雫が高台の住宅街から階段を勢いよく降りるシーンがある。あのさわやかさと、ときめきと、高揚感。
自分の中の物語に夢中な雫の心は、きっと恋のときめきに似ている。
夢中の足音、高らかに地を蹴るスキップにも似た音は、恋の音に違いない。
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