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月刊はつかのnote/2020年3月号

ごあいさつ

こういう時だから、なにか。
そんな気持ちが、日々身体の節々に張り付いています。

桜咲く。きっと春は来る。
そんな励ましの言葉を見かける機会が増えました。でも皆、心のどこかで、このざわざわは春を越すのだと分かっている。そんな気がして、なりません。

明るいことを言うことも、勿論大切。できれば、明るいことを考えて生きていきたいから。
だけれども、それは、嘆いたり悲しんだり、苦しい気持ちを吐露してはいけないということではありません。

できるだけ、明るい話題がしたい。人を元気づけるような、互いに励ましあっていきたいです。

でもね、それは苦しいって言っちゃいけないことではない。だから、皆もう少し、辛いという気持ちを大切にしてもよいのではないかなと、思います。もちろん、それが他人の不安を煽るようなら、一度口に出す前に立ち止まった方がいいでしょう。だけど、本当に大切な人の前でまで、家族や、恋人や、あるいは白い紙を通して自分と話をするときまで、偽って無理に笑う必要はないかもしれないな。そんな風に、思うのです。

もしこれが戦争ならば、お国のために、皆が我慢しているのだから。そういって、口をつぐむのでしょう。でも、その結果どうなったか、私たちは過去に学ぶべきではないでしょうか。

きちんと、自分のストレスや辛さと向き合って。皆が苦しいは、あなたが苦しんじゃいけないという意味ではないから。

そんなことを思う、卯月です。

  〇

総観

さて、三月のまとめnoteです。
自己紹介的なまとめはこちら。二月分はこちらに。

先月の大きな出来事としては、cakesクリエーターコンテストに応募したことです。応募作品の紹介は後述に譲るとして、ここでは少し裏話を。

cakesコンテストに出すにあたって、自分のnoteを少しばかり読み返していました。こうして改めてみると、自分の文章の特徴と言うのが、すこしずつ見えてくるような気がします。

たとえば、「だけれども」の多用。
「だけど」や「だが」や「しかし」「でも」ではなく、なぜか「だけれども」。なぜなのでしょうか。
ほかにも、「きっと」の使用頻度の高さ。これは、特に文章の締めによく使う傾向があります。「きっと、〇〇だろう」そう締める癖があるようです。強く言い切れなかったり、自信がないのか。無難なところに話を落ちつけようとしているのかもしれません。

実は、cakesコンテストに出した文章の最後。あれも、草稿では「きっと」でした。なんだがしっくりこなくて、自分のnoteを読み返してみて初めて癖だと気づくことが出来ました。それを受けて今の形に書き換えたのですが、「おそらく」という文章を入れてしまうあたり、自分の言い切れない弱さが見れて、少しお恥ずかしいです。

強い言葉を使いたいという気持ちと、強い言葉がどこかで誰かを否定しないかという気持ちが交錯します。私自身、人の文章を読んで否定されたと思うことは少ないのですが、自分の感覚が世界のすべてではないので、そういった誤差を恐れているのかもしれません。

ほら、また、「かもしれません」。

文章を書くことは、あるいは生きることは、先の見えない暗闇を歩くことのようです。なにかにぶつかってしまわないか、誰かの足を踏んでしまわないか。不安でなりません。でも、それでもよい、そう思って踏み出す一歩も、必要な時があるんじゃないか。その一歩を踏み出せる力が、ほしいです。

  〇

三月のおすすめ「はつかのnote」

〇なにも聞くなよ二〇歳

「誰の言うことも、なにも聞くなよ二十歳」
君のやりたいことを、やりたいようにやればいいさ。勉強が好きなら、勉強を。夢中になれる趣味があるなら、その趣味を。世間の言う「これをやらなきゃ後悔する」なんて話、聞くなよ。「こうしといたら就職楽だよ」なんて言葉、飲むなよ。 君のやりたいことを放っておいて、果たせる何かなんて、なにもないよ。

〇愛しいわたしの傷跡

この傷は私が生きようとした証で、生きている証で。
この傷は私の大切な宝物で。
この傷がなくなったら、それはもう私の身体ではないような気さえする。
愛しい愛しい傷なんだ。

〇運命、ということにしよう。

不思議と縁を感じるような出来事が、人生ではときたま起こる。
それは、例えば今まで気付かなかっただけで、実は生活の中に潜んでいるものを発見したとき。田んぼの畦道に生える雑草は、名前を知っていれば雑草ではなくなる。次第にその花が目に留まるようになり、なぜだか縁を感じる。
それは、いってしまえば偶然だ。たとえこの畦道を通るのが自分以外の誰かでも、同じように花は咲いている。だけれど、道を通る人の全員がその花に気づくわけではない。
だから、これは偶然だけれど、運命だってことにしたって、いい。

〇「書くこと」に疑問を持っていた私が古典に救われた話

人が真に他人を理解することって出来るのかな。
『今』という瞬間が目に見えないように、理解したという気持ちも、そう思った瞬間に他人の気持ちから自分の気持ちになってしまう。
人が真に他人を理解することができないならば、分かってほしいと思うこと自体、酷く愚かなことじゃないだろうか。
そう思いながら、それでもなお、私たちはどうして文章を綴ってしまうんだろう。

おわりにかえて、三月まとめ報告書。

コメント、スキ、ツイッターでのシェア、ご感想。どれをとっても、本当に嬉しい限りです。いつも、自分に向けた手紙を、それでも誰かにという少しのエゴを混ぜて、そっと瓶に詰めて海に放流している気持ちで書いています。あなたのところにたまたま漂着して、それをみつけて拾ってくれて、これ以上うれしいことって、きっとこの世にない。そう思います。

ツイッターにもいます。もしよろしければ。

三月はこんな感じでした。

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